312_Tarrytown






2000年 坂上からメインとブロードウエイの交差点





2012年 北の方向を見る











































































2012年 アーチの入り口があるビルは昔、銀行。アート・デコー
































































カード/ギフトショップ 右に星条旗が見える














































1983年 正面の工事中が旧コルヴェット、マルコス・ファミリーが買ったとか メーシーは反対側

























































1994年 元小学校




























































 2006年10月 郵便局











 2006年 公共駐車場 正面が葬儀屋さん

 2006年銀行 横通りから

















































 ブロードウエイの東、南






2012年















































 2009年 オフィス団地














































































 1999年

 2006年

タレイタウンの商店街

 さて、この交差点、今まで登って来たのはメイン・ストリート。 ぶつかったのはブロード・ウェイ。
あのミュージカルで有名なブロード・ウェイと同じです。 同じというのは名前が同じというだけでなく、そのブロード・ウエイの続きなのです。
そもそもブロード・ウェイは、マンハッタンの南端ボーリング・グリーンを発し、ズーッと北に上っていますが、この通りは、その一部。 

何かで読んだところに拠れば、アメリカ中で、又は一説によると世界中で一番長く続く同名の一般道路との事(なんとか高速道路と言うのは一般道路ではありません。念の為)。
何回かに分けて全区間を車で走ってみました(マンハッタンのセントラル・パークから南端は南向き一方通行ですが)。
長年の間に区画整理等でずれてしまい、何十メーターもの間、何処にいってしまったのか解らない個所もありますが、一応はずーっと首府アルバニー迄続いていました。

タレイタウンの中心はブロード・ウェイとメイン・ストリートが交差するこの辺り。 もっともアメリカの殆どの町にはメイン・ストリートがあり、少し大きな町にはブロード・ウェイもあります。
交差する所は街の中心か旧中心地。 角にはおきまりの銀行、市町村庁舎とか、郵便局、図書館等もこの付近でまず見つける事ができます。 日本でいう所の銀座通りと本町通りという事でしょうか。

通りの名と言えばアメリカでは人の名前をつけるのが好きですね。 大きな街ですと、ワシントン・ストリートとか、フランクリン、ジェファーソン、マディソン等は当然。 ケネディの名も方々で見ますし、宇宙飛行士ジョン・グレン、黒人初のメジャー・リーグ・ベース・ボール選手ジャッキー・ロビンソンもありますし、ジョー・ディマジオも考慮されているとか。 日本では伊藤博文通り、吉田茂道路、王貞治通りなんてのは考えられないでしょうね。  (2013年 ジョー・ディマジオはマンハッタンの旧ウエスト・サイド・ハイウエーの極一部に使われています

これは道路の名だけに限りません。 ケネディ空港は勿論、ラ・ガーディア空港もニュー・ヨークの名市長の名が付けられたもの。
最近ではワシントン国際空港がレーガン空港に改名されたようですが、個人的に言えば、そこ迄やるか、といったところ。 ワシントンのもう一つの飛行場の名はダレス、元国務長官です。

学校の名前も著名人の名をつけているのが多いようです。 何処かの市、黒人人口が多いのですが、白人の名前ばかりで面白くないから、歴史的に有名な黒人の名前を付けようと運動を始めました。 それは良いとして、建国の父ワシントンの名が付いている学校名迄変えるのかと非難が舞い込み、どう決着を付けたのでしょう。
そう言えば、隣りの村には国立公園の名が付いている道路が並んでいる区間があります。 地理の勉強にもなり楽しいですね。 イエロー・ストーン通りとかヨセミテ通りとか。
郊外では木の名前が付いた通りも多くあります。 チェリー通り、ウイロー通り、エルム通り、メープル通り、云々。 どこも同じで面白くないとも言えますが、19-35 45通り、なぞという名称よりはましだと思います。

角の店は銀行が消えた後、ヨーグルトとかファースト・フードとか、食べ物屋さんが代わりに代わって、現在の店でもう4代目、どうも長続きしません。 目に付き易くても、道路以外に駐車場所がなく、横断歩道分も減る訳ですから、商売は難しいのです。
角を左(北)に曲がると2軒目は小さな本屋さんでしたが、1997年からもうありません。 このような本屋の店主や店員は本が好きな人が殆どで、気楽に質問に応じたり、置いてない本は、一緒になってカタログで探したり、他のお客さんとも気軽に話ができる雰囲気がありました。
このような個人的な雰囲気の店がどんどん消えていくのは残念です。
ショッピング・センターにある大きなチェーン店、郵便販売によるブック・クラブ、そして今やインター・ネットでの注文と、本を買う手段が増え、読む方もじっくり読む本を探すのではなく、ベスト・セラーだから話の種に買う、という風潮に拍車がかかってきたからでしょう。
アメリカには本の定価制度がありませんので個人店は 15から 20%も本をディスカウントするような大チェーン店と対抗できないのが当然。 
売れないようなハード・カヴァーの本では 60から 70%の在庫整理を兼ねたディスカウントもあります。 もっとも、この種の在庫整理をさせられのは出版社であって、チェーンが損をしている訳ではないようです。 大チェーンの販売力は段違いに強く、卸値を下げざるを得ないのです。
インター・ネットでの本の販売となると店を構える訳でなし、場合によっては、客への配送も出版社、代理店に任せますから、保管場所も必要なくなります。
本の紹介から宣伝もインター・ネット上でしたら、タダ同然。 ますます小さな本屋さんは消えて行く事でしょう。
人との直接の接触が減り、本を買いに行くのも味気なくなってきました。 立ち読みをしたり、相談をして本を買うという事もその内になくなっていくのでしょうし、それ以上に、紙で出来た本が貴重な存在になってしまうのも、そんなに遠い先ではないのかもしれません(そういう私も2012年からアマゾン・キンドルを使っています)。
日本での本の価格維持制度ですが、以前日本で自費出版をした事があります。 出版 1年半後に、本と内容的に関係のあるヴィデオ・テープを某社が出したのですが、テープを買い本も欲しい人には、本の方をディスカウントするのはどうですか、と仕入れの人に聞いたところ、定価が本に印刷してある限り、返事はノー。 
本は再販制とかで安売りはできないとの事。 出版している本人が値引きしてくれと言ってるのですがねえ。 最近本も再版価格制から外される事になったそうで、やっと欧米並みになってきたということでしょうか。

この2軒先はカメラ屋さんでしたが、私が来た頃には 50m位の間に2軒のカメラ屋さんがありました。 これも本屋と同じようなストーリー。
昔からのポップ・アン・モム(夫婦二人でやっているような店)の経営では、ディスカウント・ストアに太刀打ちできる筈がありません。
YMCAの近くにあった店は郡内の他の2軒と提携したのですが、その3軒共ダウン・タウンの小さな店。 3軒の共同仕入れや宣伝をしたところで、たかが知れています。
金づるだった DPE もミニ・ラボの出現で売り上げが減り、結局はディスカウントとメール・オーダーの写真器材専門店に客を奪われ消えていきました。
雑誌、新聞の広告で安い店が簡単に探せるので、本屋よりもっと分が悪かったといえるでしょう。
これは本やカメラに限った事ではなくレコードや電気製品等でも同じです。
メール・オーダーの比率が大きくなった理由として、クレジット・カードの入手が昔と比べると楽になったという事と、通信販売に対する規制が逆に少しづつ強くなり、安心して買い物ができるようになった事があります。
もう一つの利点は、州を超えての売買にも正式には売り上げ税がかかるのですが、幾つかの州を除いて、売上税の徴収を押し付けない州が殆ど。
買い物の額が多い場合、運送料に保険料を足しても地元の安売り店で買うより大幅に安くなる事が多いのです。
オン・ライン・ショッピングといえば、IBM最初のPC以前から、私はプロ・カメラ・ショップのコンピューター化に閑があれば首を突っ込んでいました。 使用していたユニックス・オペレーティング・システムでは最初から通信にかなりのスペースを割いています。 ですから、インターネットが一般化する随分前からカタログなんぞ全部コンピューターで呼び出せばいい、画面も動画にすれば商品も色々な角度から見れるし、注文もカードでその場で出来るようになると言っていました。 まだモデムの速度が1200ボードに変わりつつある頃で、勿論実用になる速度ではありませんでしたが、速度の向上とインター・ネットの加入者急増で現実化しましたね。
TVのショッピング・チャンネルは、コンピューターと違い、自分が欲しいものを画面に呼び出せる訳ではありませんが、衝動買いを煽らせる最適の手段の一つでしょう。

 この通りの左側の店を羅列していきますと、隣りからジュエリー、サブウエイのサンドイッチ、床屋(以前はカメラ屋さん。ヘアー・サロンが増えても、床屋さんは無くなる一方なのに、新規開店とは少々珍しい現象です。客の入りもまあまあ)。 ヘアー・アンド・ネール・サロン、メガネ屋、花屋、バー(昔はハード・ウエア・ショップ)、アンティック (元婦人靴店)、コーヒー・ショップ、アンティック、デリカテッセン、レストラン、小さな3階建てのアート・デコーのビル(元は銀行、今はオフィス・ビル)と続きます。
私が来た頃から残っているのは、メガネ屋さんと花屋さんだけ。 昔はもっと生活必需品の店が多かったのですが。 

サブウエイのサンドイッチ・ショップは、日本にも出ているようですが、ニュー ヨーク地下鉄の古い図面や写真をモヒーフにした内装になっています。
サンドイッチ自体は、昔からあるブリンピーのチェーンを真似たもの。
ブリンピーというのは、内部に構造用の枠が無い飛行船の愛称。 グッドイヤーの名がついたのがスーパー・ボール等の時にやって来ますね(日本ではフジフィルムのをよく見かけます)。
かの爆発炎上したので有名なヒンデンブルグは飛行船(エアー・シップ)でもブリンプとは呼ばず、骨組みがあるのでデリジブルという範疇に入ります。
所変われば品変わるではありませんが、ボストンの方では、同じようなサンドイッチをサブマリーン・サンドイッチと呼んでいました。 これも形が潜水艦に似ているところから来ています。
サンドイッチというのは、元々イギリスの貴族の名前から来ている、と御存知の方も多いようですね。 挟み物を指しているだけにすぎず、食パンに何か挟んであるのだけがサンドイッチという事ではないのです。 ヒーローというコッペパンを二回りも大きくしたようなパン、イタリアン・ブレッド的なものも含まれます。
このようなチェーン店では、ハム、ソーセージ、チーズ等を番号で注文し、好みでトマト、レタス、オニオン、オリーブとか乗せ、その上に、オイルとビネガーをぶっかけて貰います。 量が多く安いので学生向き。
忙しい店ではビニールの手袋をした店員が専門に作り、レジは別になっていますが、暇な所では小さなビニール袋を積み上げて、その中に手を突っ込み、材料をつかんではサンドイッチを作り、レジでは素手に戻る、 お金も触るのですから合理的といえば合理的。
アメリカではお金は汚いという感覚はあまり無いようで、お金を扱っている手で食品を触るのも結構無神経。 歩道の売店なぞ不衛生もいいとこなのですが。
もっともマンハッタンの或るコーヒー・ショップではビニールの手袋をして食品に触れ、その後、お金も扱っていました。これでは自分の手を汚さないだけの理由で手袋を使っているだけ。
そう言えば、サンドイッチ・ショップではシックス・フーターというのも注文で作ってくれます。
2m近いの長さのサンドイッチ。パーティの時等に配達して貰うのですが、大人でも6人分はあります。 子供のパーティには割安。

反対側の2階建てレンガのビルには、古くからある旅行代理店とジュエリー・ショップ、印刷とコピーのチェーン店があります。
旅行代理店もアメリカではインター・ネットに食われ数が減ってきているようです。
この建物の坂上側、数軒目は何とタイプ・ライターの修理屋さん。 ニュー・ヨーク市や郡の中でも殆ど生き残っている店はありません。 却って貴重な存在になり、あちこちからタイプ・ライターの修理が持ち込まれているようです。
中古も売っており、IBMに混ざって、レミントン等の旧い箱型のも見られます。実用品としてよりは、使えるアンティック、部屋の飾りです。(2012年に残っていたは宝石店だけ

      
 左 2012年6月 交差点北東側 角は宝石店 このビルの外れ辺りがタイプライター修理店
 右 2012年 左写真の左隣 暫く前からオフィス

又ブロード・ウエイに戻ると次は普通の一軒家ですが、改造されて弁護士事務所となっています。
先程のアート・デコー元銀行の横の通りを渡ります。 通りの名はセントラル・アヴェニュー。
メイン・ストリートよりも傾斜が緩いので、GMから出荷される車を載せたトレーラー・トラックが常時行き来していました。 傾斜が緩いとはいえ、交差点入り口のアスファルトには車を満載したトレーラーが擦って残していった傷痕が数多く残っていました。
名前の通り、昔々はこの道の両脇で生産や商売が盛んに行われていた目抜き通りですが、面影は全くありません。

            
   3階建てのオフィス・ビル    この道路を車載車が走っていた。上り切った所で腹を擦る

通りを横切ると、この町では珍しい、大き目な古い3階建てレンガ造りのオフィス・ビル。 通りに面した1階は、古くからあるグリーティングカード/ギフト・ショップ。
アメリカ人はカード好き、日本人の年賀状や暑中見舞いには数の上では及ばないかもしれませんが、使い分けという事では遥かに上回っていると思います。
スーパー・マーケットにもドラッグ・ストアにもかなりの種類がおいてあり、一寸した町なら何処にでもある店。
正式な手紙を書くのが面倒くさい人が多いのでしょう。中には面白いものもあり感心します。
パーティ・グッズも置いてあり、子供の誕生パーティに必要なものは、ヘリウム入りのバルーンを含め、まず揃います。

次の通り迄には、デパートメント・ストア、ウールワースの雑貨店、少々値が張るが有名なスーパー・マーケットのチェーン店がありましたが全て消えてしまいました。
デパートはチェーン店の1軒。 もっともデパートメント・ストアといっても小さなもので、流行には余り関係の無さそうな店でした。
私が来た頃にあったのは他のチェーン店に買収され、名前を変えてこの 20年程営業されていました。しかし、これ又力尽き、 1999年の4月で店を閉じてしまったのです。

デパートも今や系列化され、競合する店や、売り上げの悪い店はどんどん淘汰され、全米の伝統的なデパートメント・ストアも今や数社で押さえられてしまっているようです。
ウールワースは、私が来た頃にはA&Pスーパー・マーケット・チェーンと並び、店の数の多さを誇っていました。
その数は両者共に全米で2000軒以上(日本のコンビニ店数の方が多いなどと言わないで下さい。1970年頃迄、これだけの規模のチェーン店は他に無かった筈ですから)。 シアーズと並んで小売関係での知名度では一番。 全米何処の街に行っても必ずあった、といっても過言ではないでしょう。

入り口から入った直ぐ脇には長手にカウンターがあり、コーヒーやケーキが食べられます。 マクドナルド等が中心街に進出して来る迄は、ハンバーガーやホット・ドッグ等も安く出され重宝だったのです。
どの店も若い客が減り、このカウンター、常連、年寄りの情報交換センターの感がありました。 しかし連中の話を何の気なしに聞いているのも悪くはありません。

ウールワース、A&P共、消費者の動向の見通しが甘く、何回か営業方針を変えてきましたが、買い物客の嗜好には追いつけず、ウールワースは全店閉鎖の憂き目に会ってしまいました。
もっともウールワースは途中でフート・ロッカーとか、他の小売業も始め、そちらの方が儲かる、というので中心地にある店から転換をしていました。
昔は、このようなチェーン店がどこにでもあり、総纏めで、ファィヴ・アンド・ダイムと呼んでいました。

何でも 5 セント、10 セントで買える、と看板にファイヴ・アンド・ダイムの字を大きく書き込んでいたからです。
「ティファニーで朝食を」でお面を盗む店、あれがそうです。 赤地に金色の字の看板は、一目でウールワース、又はファイヴ・アンド・ダイムの店と判ったものです。
ディスカウント・ストアーでも、ここ迄規模が大きくなると大したもので、マンハッタンのダウンタウンにあるゴシック調のウールワース・ビルは、短い期間でしたが世界一の高さを誇っていました。
お菓子類は別として食料品は売ってはいませんでしたが、日本ではダイエー等がこれに当るでしょうか(100円ショップとは異なります。安めの家具、電気製品等も売っていましたので)。

今はKマートとか、ワルマート、ワルグリーンとかの店が店舗数を競い、数の上では一時のウールワースを追い抜いたようです。 最近はディスカウントの専門店に追い上げられているようで、後何十年続くのでしょうか。
現在この店舗は韓国の人が営業するゴーメー(グルメ)・デリとなっていますが、店のサイズといい、少々場違いな気もします。

消えていってしまったのは、売り場面積中小規模のアメリカ標準チェーン店だけではありません。 デパートも倒産、閉鎖をしています。
私がアメリカに来た年にはフィフス・アヴェニュー、51ストリートにあった高級デパート、ベスト・アンド・カンパニーが。
70年代には同じくフィフス・アヴェニュー、40ストーリートのアーノルド・コンスターブル、メーシー・デパートメント・ストアの前にあった廉売百貨店コルベット。
80年代には、これ又、メーシーの近く、古い歴史を持つギンベル・デパートメント・ストア、エンパイア・ステート・ビル斜め向かいの大老舗、ビー・アルトマンと続けて閉鎖しています。
特にビー・アルトマンは東京で言えば、三越クラスの店。 閉鎖発表時には多くの人々にショックを与えました。 このデパートの場合、財団が所有しており、格にこだわり過ぎたという事もあったようです。 歴史的な有名デパートでも倒産させてしまうアメリカ、資本主義の精神そのものです。

          
左: 1972年 左の骨組みがベストだった  中央: 1985年 右の建物がビー・アルトマン 右: ビー・アルトマンのクリスマス飾付 ガラスに反射しているのはエンパイア・ステート・ビルディング

店の倒産の話ばかり書いているようですが、小売だけでなく、生産業者の事も書いてみましょう。
一時、柑橘類とか米の自由化で、日本では大騒ぎをしていました。 農家を潰す気かと。
アメリカでは農家が潰れても当たり前。 別に寡村の事を言っているのではありません。 一番ハッキリとした例を出すと、オイル・ショックの時です。
穀物の輸出も増え、大型の農耕機械を買い込んだり、買い替えたりする農家が増えましたが、オイル・ショックで燃料はおろか全てが値上がり、ローンが払えなくなる農家が続出。それ以外にも種や肥料を買う為の金利が上がり、倒産、差し押さえになる農家が急増したのです。
これは牧畜業も同じ、牛の数が減り値段が上がれば皆一斉に数を増やし、値崩れを招くという事は頻繁です。
農業でもこちらではビジネス。 勿論、穀物や、或いは砂糖等の特殊な農産物には、最低価格制度があり、政府からの援助も出ますし、災害時には援助や、低金利のローンも出ます。
しかし基本的には自由競争制。経営を間違えれば倒産です。
責任を自分達だけで負いたくない人は大企業に土地を売り、そこの労働者として収入を得るというのも現在では増えているようです。
とにかく日本の農業方法は人手がかかり過ぎます。  隣近所との協同耕作とか、消費者や小売業者の教育とかできないものでしょうか。
こちらでは、リンゴもスイカも大きさはまちまち、いびつな物迄一緒に売られています。 味に違いは無い筈ですし、この段階ならば手間も同じ。
高いものは高いもので良いのですが、安い選択もあって良い筈です。 見かけだけで売買するような風潮は消えてもらいたいものです。
アメリカの西部、西北部ではこの数年皮肉な事が起きています。
バブルの時代にアジアへの輸出を増やそうと、アジア向けの牛の飼育や、果物を作る牧場、農場が増えました。 アジア諸国の貿易輸出超過もあり、軌道に乗ったのですが、今のアジアの景気低迷で、好調なアメリカとは裏腹に売れ行きが落ち、又、倒産に陥る所が出そうです。
自由競争の世界、資本主義の本当のあり方というのは厳しいですね。
2013年 中国の消費が伸び、バイオ・エナジー用の耕作も増え、杞憂でしたが、違う方面での心配が出て来ました。2012年にワイオミング州を通過したのですが、雨が暫く降っていないのは一目瞭然。地元で話にも聞きました。その上、立っていられないほどの風。今年もその傾向のようですが、気候変動の影響が出てきたのでしょうか。1930年代のダスト・ボールの再来とならなければ良いのですが

駆け足で次の通り迄紹介しますと、CVSという化粧品、医薬品、日常品のディスカウント・チェーン店。
昔マンハッタンで良く見たチェーンだったのですが、見かけなくなったと思ったら、郊外に出ていました。 ニュー・ヨーク州を中心として、東北部の各地、一寸した町なら何処でも見かけます。
このCVSとデュエーン・リードというチェーン店が東北部では強く、ウール・ワースに取って代わったと言えましょう。 しかし、食事のカウンターはありません。
次がレストラン、ケーキ屋さん、薬局、一時間現像店。 薬局の本店。 ジュエリー・ショップ、バスキン・ロビンスのアイスクリーム屋さん、カーペット屋さんと続きます。 レストラン、DPE店、カーペット屋以外は私が来る以前からの店、健闘しています。
         
 カーペット店等が入る建物の裏駐車場       駐車場の西端に行くとYMCAが見える(右側の建物)

通りの反対側、弁護士事務所迄戻ると、手前には広い芝生の前庭がある学校らしき建物。
角には、何処の町でも1ヶ所の公園にまず置いてある兵士の像。
軍服から第一次大戦時の兵士と判ります。普通ですと横に星条旗と南北戦争時代頃の大砲、場所に依っては鉄の弾丸が円錐形に積み上げられています。
これらは、その市町村から第一次大戦に出征、戦死した兵士達を偲ぶ為です。
現在ここが公園や学校でない事は、角に立っているランドマーク・コンドミナムというサインで知れます。 私が来た頃はピアソン・スクルーと呼ばれた小学校でした。
元々はワシントン・アーヴィング・ハイ・スクールとして1897年に建てられ、礎石にはタイム・カプセルが入れられたとの事。
エリザベス調の建物は、当時の文献によれば、ニュー・ヨーク州内のもっとも素晴らしい学校建物の一つとされています。 1925年迄は幼稚園から高校まで、それ以後は名前もピアソン・スクールと変わり、小学校だけとなりました。
ピアソンは人の名前。1880年代にタレイタウンで花の温室栽培を大々的に行い、東洋から珍しい花を輸入栽培したり、バラの花等をを大量にニュー・ヨーク市に送り込んでいた事業家で、村長さんや教育委員長にもなった人物。
当時の写真では、はっきりした場所は判りませんが、グリーン・ハウスがいくつも並んでいます。 今は改装されてコンドのアパートとなっています。
勿論、歴史的建物ですから、外部は成るべく原型に近い形で修復されました。
ここでアパートの説明をしましよう。

アパートには賃貸の他にコーオプとコンドがあります。 コーオプはコー・オペレーションの略。 ビルの経営を会社組織にして、そのアパートメントのサイズに応じた株を発行します。
住人は株主。 その中から選出された人や、管理会社の人間が運営委員会のメンバーとなり、ここで作られた規則によって運営します。 ですから住んでいる部屋はあくまでも、そのビルの会社の所有。 
部屋の改造をしたりする時は許可が要りますし、極端なビルではアパートメント(株)購入者の審査迄行います。 バーバラ・ストレイザンドも断られた1人です。 
ニクソン大統領が解任されて民間のアパートを捜した時も引っかかりました。 もっともこちらの場合は他の住人の安全を守る為。 バーバラの場合は音楽でうるさいとか、人の出入りが増えるという事よりも人種的な問題の方が大きかったようです。

無理して高いアパートを購入したはいいが、派手好きな委員会で、ホールやエレベーターの改装時にデザインや材質に凝り、高い割り当て金を押し付けられ、払えずに売りに出す人も結構いるようです。
転勤の間に貸すにしても、どんな人に貸すかの審査をする所も多いようで、審査に通らなければ貸す事も出来ません。
場所に依っては窓のカーテン、ブラインドの種類から色まで指定とか。
既存のアパートメント・ビルをコー・オプにする場合は住人の3割以上だと思いますが、合意が必要です。 既住者には内部値段が告示され、安く買う事ができます。
コー・オプの値が高騰したアメリカン・バブル時には、すぐに転売をしてボロ儲けしたり、何軒もの権利を投資目的で購入する人も増え、ある一定以上の利潤があった場合は利益を払い戻させるコ・ーオプもあるようです。
家賃で余り利益の上がらないビルの持ち主にとって、コー・オプに変更する事は、一挙に巨額の収入が入る訳ですから、こんなビルが、と思われるのまで申請され、問題になった事もあります。
新築の場合ですと、売れる見込みがあれば短期の借入金でビルが建てられますから、新しいビルにはコー・オプが多いようです。

元々はビル所有者の資金回転を良くさせ、新しいアパートメント・ビルディングをドンドン建てさせようという考えで始まったようですが、古いビルに関しては、金儲けばかりが先行しているようです。
なお賃貸希望者はコー・オプになっても、そのまま住み続ける事ができます。

コンドはコンドミナムの略。 アパート自体を買い込む訳ですから、構造上に影響のない改築でしたら問題はありませんが、メインテナンスは本人の責任。税金も本人に直接課税されます。
ヨーロッパはコンドが多いようですが、保守に煩わされたくないのか、ニュー・ヨークではコー・オプが多いようです。 ちゃちなビルの場合は将来の事も考えなければなりませんし。
この学校の建物、分譲アパートになった裏には皮肉な話があります。その事は後の章で。

又ブロードウェイの話に戻りましょう。 アパートの次は教会。
1837年に建てられた白の木造建築で、鋭く尖った塔にベルと時計が付いています。
木々の花が咲く春には建物の白、時計の文字板の黒、花のピンクが調和して大変美しく見えます。
この建物も確か保存建物指定になっています。 正式の名前はセカンド・リフォームド・チャーチ。 宗教に疎い私には、どの宗派に属しているのか判りません。
             
     1975年 桜です             1999年               2012年

その隣は郵便局。 建物は何処に行っても同じような建て方。
歩道の端にポストがあり、差し入れ口は両側にあるので車からでも投函できます。 もっとも、助手席に誰かが同乗していれば別ですが、安全ベルトを外し窓を開けて乗り出さなければ届かず、雨の日など、見かけよりは面倒。
昔からの郵便局では駐車場は無いも同じ、メーター・パーキングが一杯の時はグルグル回って時間潰しです。
次の角は銀行。 銀行のビルとしてはヨーロッパ風の優雅な造りですが、昔はピアソン氏の花店、との事で納得がいきました。 交差点側の角は弧を描いており、上がアーチの大きな窓と共に、強く印象に残る建物です。
       
           2006年 3枚共 当時バンク・オブ・ニューヨーク

通りを渡ると公共駐車場。 他の公共駐車場と同じく、月極券を窓に貼っておくか、25セント玉をメーターに入れてパークします。
私自信、月極券を購入して1年程夜間駐車をした事があります。 本来は夜間駐車禁止なのですが、道路に駐車するよりは安全ですし、村の住人であり、不都合もないので警察も別に文句は言いません。 もっとも夜半に自分の車1台だけポッツリと止っているのを見るのは奇妙でした。

ブロードウエイに面しているのに、入り口が駐車場の奥になっているのは葬儀屋さん。
ブロードウエイの反対側の角にある場違いにモダンなビルは元タレイタウンズ・バンク。
 その北隣も葬儀場。 造りは両方共、看板さえなければ、手入れを良くしている大きな家だな、位で通り過ごしそうですが、細部に迄目が行き届く人には、車寄せが玄関迄行っているので普通の家とは違う、と判るでしょう。
私がニュー・ヨークで最初にフューネラル・ホームと書いてある看板に出食わした時には、「葬式の家」とは何ぞや、と暫くピンと来ませんでした。
機会があって中に入る事がありました。 そっけない大きな部屋に各々が持ち寄った花が飾ってあり、その中心に棺が安置されていました。 ここで最後のお別れをする訳です。日本でいう告別式。
昔「ラヴド・ワン」という映画をアート・シアター系でやっていましたが、あの感じですね。 棺を決めて貰い、遺体の手入れ、化粧を施した上で安置するのです。
日本と違うのは、病院で死んでも家には遺体が帰って来ないという事。 家で死んだ場合は別ですが、その様な例は大変に少なく、家の内でお棺を見るという事はまずありません。 棺はここから霊柩車に載せられ墓地か火葬場に送られます。
日本と同じで暴利をむさぼる業者も多く、何年かおきにニュースになり問題にされています。 最近はお棺全てに定価を表示するように義務づけられているようですが、一番安い州指定の棺さえ見せれば、それでお終い、のようです。

次の通りを越すと公立図書館。 大きくはありませんが、ここで手に入らない本は、コンピューターでチェックし、グリーンバーグ図書館か、ホワイト・プレーンズにある郡最大の図書館にあれば後程手に入れてくれます。
図書館の前は、小さなショッピング・モールで、シティ・バンクの支店や、村に3軒あるスーパー・マーケットの一つがあります。
図書館に続いた緑地はパトリオティック・パーク、愛国公園ですね。 独立戦争時にイギリスのスパイをしていた独立軍将校ジョン・アンドレが1780年に処刑された場所で、その史実を後世に残す為に1853年に作られた公園です。
アンドレの名は独立戦争を語る時に重要な名前の一つになっています。
公園の中程、歩道に面して碑が立っており、側には小川が公園を突き抜けています。 公園の図書館側には子供の遊技場、木製のジャングル・ジム等があり、図書館の隣という事からか、子供の姿が何時も絶えません。
反対側の一隅に、第二次大戦と朝鮮動乱時に戦死した兵士達を称える碑があります。 今でもメモリアル・デーには退役将兵のパレードがあり、花束が捧げられます。
公園の反対側は学校。 ブロード・ウエイではメイン・ストリートの交差点を除いて互い違いに道路が交差(T字型)しており、公園の始まりは学校の敷地の始まりと殆ど同じなのですが、公園の終わりの道路で学校の敷地はまだ半分位。
しかしここでタレイタウンもお終い。 学校の敷地は二つの村にまたがっており、こちら側に小学低学年の校舎、向こう側に高校の校舎があります。

         
左:セントラル・アヴェニューを下がって最初の角 右:消防署。その右先はミュージック・ホール
     
 上の写真の交差点を通り過ぎた地点。このまま下りていくとマクドナルドがあるミニ・ショッピング・モールへ



  タレイタウンの他の地域
ブロード・ウエイをメイン・ストリートから今迄の逆方向(南)に歩くと、セブン・イレブンと同じ建物に、コーヒーショップ、ピザ屋さん等がありますが、真中辺りに挟まっているのは郵便代行業の店。 昔にはなく今ではどこの街でも見掛ける業種。
共稼ぎが増えてきて、小包の宅配便を受け取れない、リストラで多くの管理職が失業し、自分で商売を始めた人が80年代に増えた事、等が理由です。
利用する理由としては、外回りの仕事が多い、又は出荷するものがあるがUPSに毎日取りに来て貰う程でもない、かといえ、UPSや郵便局に持ち込んで並ぶ時間も無いとか郵便制度に不満を持つ人達もいるようです(という私も一時、郵便局に行くのが憂鬱な時がありました。差別主義者ではないかと思われる職員がいたからです)。
日本で云えば宅配扱い店という事になりますが、こちらは専業。 郵便局止めと同じ様に、小包だけでなく、手紙も預かってくれますし、中身だけ持ち込んで、箱とテープでの梱包サービスも受けられます。
ファックスの普及は一時日本より遅れていましたので、ファックスの代行サービスも盛んでした。

ダラダラ坂をもっと登って行くと、左側にはこの辺では大きな石造りの教会。
ロックフェラーが建築時に相当寄付したとか。 数年前に大火事になり屋根が焼け落ちたのですが、この時もロックフェラーから資金が出たようで、予想よりも早く修復されました。
この近辺の教会も熱心な信者が減り、大きな建物の教会では火事などの時に寄付が集まらなくなり困っているようです。
2、3分も歩くと右側に学校。 ワシントン・アーヴィング・ミドル・スクール、俗に頭文字を取ってダブリュウ・アイと呼ばれています。
独立記念日の花火大会では、グランドが格好の見物場所となります。
            ワシントン・アーヴィング・スクール
           左2枚2006年
  
  2012年                               右:暖房、温水用ボイラーの煙突

このグラウンドの反対側にはユダヤ教の教会、即ちシナゴグがあります。
週末には結構車の行き来があり、信者は多い様です(航空写真では中央付近の小さなドーナツ状のもの)。

この先を少し行くと左右にアパート群。左側は一寸古く、エレヴェーターの無い建物群。 裏に細長〜い平屋の建物があり、日本ですと物置ですが、こちらではガレージ。大きなドアだけが並んでいます。同時期に多い様式です。屋外駐車は禁止されている筈ですが、ちゃっかりと車庫を物置に使っている人もいます。
右側はタウン・ハウス形式のアパートで、家賃も高かったようですが、今はコンドでしょう。
その先に場違いとも思えるモダーンなオフィス・ビル。 最近やっとテナントも増えたようで、朝は一寸したラッシュになります。 

その次はステート・ポリス(州警察)の建物。 これは下を走るハイウエーの為にあるといって良いでしょう。 裏の駐車場にはダーク・グリーンのポリス・カーがズラッと並んでおり、ハイウエーの下り線にそのまま出られるようになっています。 
地方自治体によっては予算の関係で警察組織が無い所もあり (地方警察は原則的に各市町村の組織となり、罰金は即、自治体に入ります、州警察が肩代わりをします。 この村でも、街外れでは交通違反の監視等もしています。速度違反では自治体の境界を越えて取締りができますから(この際の罰金もその市町村に入ります)。

反対側は小さなショッピング・センター。 銀行の支店が2つ、この近辺では一番大きなスーパー・マーケット、リカー・ストア、クリーニング店等が入っています。
スーパー・マーケットは私が記憶しているだけでも 3回経営会社が代っており、小売戦争の激しさをまざまざと見せ付けられます。 スーパーの手前は薬局だったのですが、これ又潰れています.

この角をホワイト・プレーンズ方向(道路の名はホワイト・プレーンズ・ロード)、左に曲がった右側にチャールスという有名な高級紳士服やアクセサリーを扱う店が昔からありました。 この近辺に住む日本人駐在員にも知られていたようですが、時代の波に押し流され潰れてしまいました。
反対側にはドイツの有名なゴーベルス人形のアメリカン・ヘッドクオーターがありました。 
芝生の敷地に大きな傘とカバンを持った2m程のパステル色の子供の像が置いてあり、中のミュージアムでゴーベルスのコレクションを見、買い物も出来ました。
しかし経費がかかり過ぎるという事で閉鎖され、その後、暫く置いてあった象徴の像も何時の間にか外されてしまい、寂しくなってしまいました。
そういえば次のビルも元々はオリベッティのアメリカン・ヘッドクオーターだったのですが、70年代の後半、タイプライターの凋落と共に閉鎖されてしまいました。
この先はガーデン・アパート群とチェーン店のバー・レストランが入っている新しいオフィス団地、マリオットの新しいモテル形式のホテル、比較的新しいタウン・ハウス群、増築中のタウン・ハウス群と続き、村はお終い。

又ブロード・ウエイに戻り、ハイウエーの上を越すと、右側にヒルトン・ホテル。 
最初に見た時には何故? と思いましたが、GMあり、ジェネラル・フーズ(現クラフト・ジェネラル・フーズ)の研究所がこの先にあり、その他、デュラセル・バッテリーの本社と工場がノース・タレイタウンにありました。
 ユニオン・カーバイトの大きな研究所もインド・ボパール事件が起きる迄ありました。 先に書いたゴーベルスの見学者も全米から来ていたので、需要はあったのです。
80年代の不況時には身売りの話もありましたが、その頃、郡内の失業者が大幅に増え、持ち家を手放しホームレスになった家族の為に郡がモテル等と契約し、有る一定期間、収容する事業を行いました。 
これはニュー・ヨーク市内でも行われ、宿泊者の減った三流ホテル、長期契約者の多いSROホテルでは大歓迎。 収入は保証されますし、儲からない長々期契約者が自発的に出て行くように仕向ける為、生活保護者を大量に入れたホテルもあったようです。
市が相手ですと、はっきりとした契約期間がありますし、空いてしまえば後は取り壊すのも簡単。
2年程前、市の許可なしに長期契約者を追ん出し、夜間、取り壊し工事を始めた業者がいました。 ニュース沙汰となり、告発されて大変な額の罰金を払ったようです。
一頃日本人観光客が利用していた中堅のホテル迄、背に腹を抱えられず、生活保護者収容場所になった所もあります(現在は観光ブームでマンハッタン内でホテルの空き室を探すのは大変)。
隣村の1中堅モテルは郡と契約を結び、タレイタウン・ヒルトンもホームレス家族を入れる検討をすると発表したのですが,村の住民からは総反対。 身売りをするにも買い手はつかず、といっている内に景気も回復し、そんな話もどこへやら。 
改装もされましたが、ヒルトン・ホテルとしては珍しく木造の平屋。 異色ですが最近の観光ブームにはコンクリートのビルよりは雰囲気が良いかも。

タレイタウンに残っている大きな企業は旧GFの研究所だけ。 テクニコンと言う会社がありましたが、レヴロンに買われた挙げ句,最近BASFに転売されました。 これもリサーチの施設で製造はしていません。
大きくはないのですが、今でも残っている工場としては、駅の向こう側にアスファルトをミックスしている施設があります。
 アスファルトは、地方自治体の道路舗装や修理、各家でのガレージ迄のドライヴ・ウエーの舗装に必要で、熱い内に撒かなければなりませんから、この施設は無くなる事もないでしょう。(2013年 見事に無くなっています

こんな中でタレイタウンに移って来た大会社がありました。 なんと日立のアメリカ本社。 ブロード・ウエイから引っ込んだ、眺めの良い丘の上です。
1980年代の中頃に移転して来た当時、村に何かしたいのだが何ができるのだろう、と仲介者を通して聞いて来ました。 私は消防も救急もヴォランティアだから、その辺りに寄付をしたらと簡単に答えておきました。
その後何の音沙汰もなかったので忘れていましたら、当時高校在学中の娘から、日立アワードというのができ、各年の卒業生から1人を選び、4年間大学在学中毎年1万ドルづつの奨学金が出る事になったの、と御注進。 これは大変な話。
全米でもっとも有名なウエスティングハウス・アワード以上です。 村では大騒ぎとなりました。 総額はそのままで受賞者数を増やせば良いのに、と思っても後の祭り。
もっとも 2年後に娘がこれに関わるとは夢にも思っていませんでした。
 その後日立は花火大会への寄付、運動競技への後援、ヴォランティア団体への寄付等で地域に貢献しています。
余り目立ちませんが、海外企業、日立の様に地元への配慮は十分にしなければなりません。

ブロードウエイをW I 迄戻り、T字路(ベネディクト・アヴェニュー)をハドソン河とは反対方向に登ります。
両側に家があるきつい坂を5、60メーター行くと勾配が緩くなり、小さな教会とその前の広い緑地を過ぎると右側に木の柵が続き、これは新しいタウン・ハウス、一寸先、左側にグラウンドがあり私立校の入り口になっています。 

この又一寸先、右側を細道を登って行くとお城があります。 勿論、お城といっても古くはなく、20世紀に入ってから金持ちが建てた物と記憶していますが。この辺りでは高く、反対側からはかなりの距離からでも塔とその先の凹凸が見えます。
何と第二次大戦中にはヴォランティアの防空警報隊が組織され、独空軍飛行機が侵入してくるかもしれないと監視をしていたそうですから・・・・・   
暫く前迄は結婚式の催し物等に貸し出していたようで、私も一度、敷地内に入った記憶がありますが、現在はもっと商業化されているようです。

道は此処から急坂でカーヴしながら降り、途中にこの近辺では高級なアパートメントや比較的新しいタウン・ハウスを見ながら、ホワイト・プレーンズ・ロードと合流します。
       
左:2006年 ヴェネディクト・アヴェニュー 突き当りがWI のグラウンド  右2枚:2012年ダラダラと坂を登っていく。両側は民家。
 
2006年                        左は私立校の敷地 右側の先にお城への細道

これら以外にこの村で目立つものとしては、金色の大きなドーム屋根と双子の貯水池でしょうか。
両者共タレイタウンの丘のテッペンに位置しており、隣同士ともいえます。 
池は大きくはありませんが、周囲は林になっており、一方には鬱蒼とした中を通り抜ける遊歩道があります。
夏の池の上には白鳥の家族、これは飼われているようですが、他にカナディアン・ギースの群れやカモ、サギもやってきます。
水鳥が増え過ぎて藻が繁殖、暫く前から飲料用には使用されていません。
ポンプ場は稼動しているようですが、村の所有ではありません。
寒い冬には凍り付き、スケートも出来ます。 利用券は村役場から貰い、一冬有効なのですが,この所暖かい為か、滑っているのを見た事がありません。
勿論ボートは使用禁止。水泳も出来ませんし、魚釣りも許可証を買わなければなりません。 見るだけの池ですが,10月の紅葉はきれいですし、池の周りに遊歩道もできました。
        
   1978年             1982年                     1981年

この辺でやめておきましょう。

              
      2007年スリーピー・ハローのマクドナルド 1986年 銀行の横道を見下ろす 2012年 コンドミナム

     
   2012年 ブロードウエーの一本上の道   ヒストリカル・ソサエティの博物館   又一本上の道
         
        2012年 上の写真、「又一本上の道」の続き
  
 2009年
     
 2006年
 
  
 2006年 左写真:ブロードウエイ  右写真:駅前の右を登っていく道 右側に中央写真の学校 ブロードウエイとぶつかる。

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