続き               

さて、切符切りの話です。正式には改札係でしょう。
小さい頃から、駅員さんが鋏をパチパチさせながらクルクル回したりしているのを見る度に、
(もっとも都会の駅員さんに多いようで、中には大変な名人もおりました) 一度はやってみたいという憧れがありました。

十日程して恐る恐る助役さんに聞いてみました。
「やってみるか」 と許しが出、勇躍ボックスの中に入り込みました。
勿論殆どの客は定期券。 これがいけません。 まるっきり見えないのです。

アッと言う間に黒、赤、青の定期入れが目の前を色だけ残して通過していきます。
その間に切符のお客さんが混ざります。 目だけ皿のようになっていても手が出ない。
切符をもどかしく受け取りパンチを入れる時には、もう後ろに列が出来ています。

小さい切符ですから落とさないように扱うのがやっと、という所でしょうか。
ボックスの外側にでも落とした日には、後ろの客にどやしつけられます。
ラッシュが一段落して、それがもう一段落すると、さて、カチカチの練習です。

これがなかなか難しい。 スプリングでも入っていれば良いと思うのですが、そんな物は付いていません。
要するに地球の引力を利用して、ハンドルを自由落下させ、次の瞬間に握り直す動作をする、
これの繰り返しだけなんですが。
二、三回続けてカチカチやるのは簡単なのです、しかしそれを続けようとしたり、リズムをつけようなんて思ったら、
もうイケません。
カチカチ、グッ、カチカチ、グッと皮膚を挟んでしまいます。
二回位挟むと親指と人差し指の間から血が出てきます。
なにも慎重にパンチを入れれば良いのですが、それはその、格好良い所を見せたいのです。
そんな調子で一回目は終ってしまったようです。
二日程おもちゃのパンチで練習しましたが、本物とは重さもバランスも違い、挟んだ後を眺めながら溜め息ついて、
カチカチ格好良くやっている自分を想像したものです。

なんとかパンチが扱えるようになって来ると、不思議な事に定期券も読めて来るのです。
最初は一番大事な有効期限、これが読めて落ち着いてくると、駅名が読めて来ます。
学生の先輩に聞いてみました。
「何処まで読んでますか?」
「そんなに気にしてないよ。 適当に見てりゃいいの。 ごまかそうとしているのは態度でわかるから」

なんせ定期券はサッと流れて行きます。 実際に見る事が出来るのは一秒以内。
それでも三回か四回目に改札口に立った時には、かなり読めるようになりました。

さすがにギッシリと列を作られ、一秒以下の間隔で定期券が目の前を通り過ぎると、
まともにチェックできるのは三分の二位でしょうか。
さすがに本職の駅員さんも毎日の事なので、まともにはチェックしてないようです。
出来ない、とは書きません。 しない、のです。
毎日、二、三時間の間にまともに何百枚もの定期券を見ていたら、ガチャメになってしまいます。

おもしろいのは、野球選手が調子の良い時は球が遅く見えると言いますが、
これ同じようなメンタル・ステートに入っている時があるのです。
目の前を通過する定期券が一瞬止まるのです(勿論、実際にはサッと動いているのですが、
その一瞬の間、目が定期券の動きに完全に同調しているのです)
その瞬間駅名から日付、年齢までが止まって見えます。はっきりと読めます。

こうなってくると女性の年なぞ知るのが面白くなってきます。
年齢、名前は手書きですので、書き癖が悪いのは、さすがに名前迄は読めません。
しかし三に一人位は読めたと思います。
混でいる時は流石に顔までは見る事はできませんが、暇な時は顔を見ては、この人の年と名前は、てな事になり、
この定期ならどこそこ学校だな、等と想像迄でき結構楽しいもんです。

最初は読むという事だけで駅名を読んでいました。
殆どの場合片側の駅名は新大久保ですし、読んではいても頭の中にレジスターしている訳ではありません。

或る日ハタと気付きました。
さっき通過したお客さんの定期が何かおかしいのです。
頭の中で国電運転区間図を描いてみました。 新大久保はその定期の通過駅でもないのです。
今度来たら捕まえてやれと思い、仕事が終った時に助役さんに、聞きました。
「こういう時にはどうしましょう」
「すぐ他の駅員さんを呼びなさい。それから、私鉄のパスで乗って来る人がいるがいるけど、場所柄特に西武線のパスが多いんだが、これはお互い同士だから通しなさい」との事。
公認なのか暗黙なのかは存じあげませんが、次の日から、区間名と新大久保との関係がパッと頭の中で、
閃くように練習しました。

結構いるんです。 何で今迄に他の駅で捕まっていないんだろう、と思う位いるんです。
大久保駅からの定期を平気で出したり、一日、二日切れているのはまだ良しとしても、或る日、
ひどいのを見つけました。

中央線の定期で澄ましているんです。 新宿とあるので、そこしか見ていなければ、うっかりと見過ごしてしまうのです。
「モシ、モシ」 と言った途端
「アア」 と大慌てで引き返していきました。
一日、二日切れている場合ですと 「期限切れですよ。 新しいのを買って下さい」と通しませんでした。

或る日、中学生の男の子が昨日切れた定期券で入って来ました。
本人は全く気付いていない様子。
「定期切れてるヨ。 切符買ってネ」顔色が白くなりました。
「知らなかったんです。 今日お金持ってないんです。 明日払いますから今日は見逃してくれますか?」
「通してもいいけど、他の駅で捕まったらもっと大変だヨ。 まだ乗る前だから良いけど」
「家に戻ったら、完全に遅刻してしまうんです」
「一寸待っててね」
暇な時だったので、通路を閉め、横で改札している駅員さんに後を頼んで駅長室に行って助役とかけあいました。
「あの子、定期が昨日切れてるんですが、お金貸してくれませんか。 定期なので必ず明日も来る筈ですから」
助役さんも快くOK。 片道何十円かの金を渡し、
「帰りは学校で誰かに借りれるだろう。 家に帰ったら、今日中に定期買うのを忘れないように」
一寸赤くなって、しかし元気に階段を駈け登っていきました。

たまたま次の日も尻押しが一段落してから、改札の仕事OKという事でボックスの中に立っていますと、
昨日の中学生がやってきました。
二コニコ見せびらかすように定期券を差し出します。
「新しいの買ったよ。 お金も出札の人に説明して返しました。 ありがとう」
私もホッとしました。
大抵の人は「切符を買って下さい」 と言うと、慌てて出札口に飛んでいき、戻って来た時に
「教えてくれてありがとう」 と言ってくれます。
見逃しても良いけれども、行って帰って来る迄に、もう三回改札口を通らなければなりません。
その日から、絶対に見落とさないぞ、と自分に言い聞かせました。

改札を二週間分もやった頃でしょうか、その日も調子の良い日で定期券が良く読めました。
人込の中、三十代のサラリーマンでしょうか足早に改札口を通り抜けようとしました。
私の横を通り過ぎる寸前に、その定期券が 武蔵小杉〜立川間 (だったと憶えてますが) で、
半年も前に切れている事が判別出来ました。
頭の中の地図も新大久保はどうみても関係ないと言ってます。

さっと定期入れを閉じて仕舞おうとする手をグッと掴み、
「お客さん、その定期は何ですか?」
男の顔色がサッと変わりました、
「気が付かなかった」 と、しどろもどろ。

他の理由ならまだしも、南武線、中央線の定期券で気が付かなかったはないもんです。
もうこれは故意でやっているしかないでしょうし、毎日儲かったとホクソエンデいたのに違いありません。
男の手を掴んだまま隣の改札さんを呼びました。
「悪質な不正乗車デース」 隣のボックスから本職の駅員さんがすっ飛んで来ました。
彼はその定期券を見て唖然。
「こんな定期でよくも毎日通っていたもんだ」

男はその駅員に腕を引っ張られ、多くの乗客に見つめられながら駅長室に連れて行かれました。
この間一分もなかったでしょう。
しかし、その間二つの改札□が閉鎖されたので通勤客で改札口は一杯。
二、三分の間は私もまだ興奮から覚めやらず、次から次へと出される定期券にも上の空。

仕事が終って駅員室に行くと、
助役さん「学生のアルバイトなのに良く見つけたなあ。 本職でも半年も見逃していたのに。 どうして判ったんだい?」
「イヤ、たまたま目に入っただけです」 大変に褒められました。
「処で、あの男はどうなりましたか?」
「悪質なので、三倍の罰金と始末書だ」
「そうすると、幾ら位払うんですか?」
「正規料金の六ヶ月分足すそれの三倍、〜万円だ」
正確な額は憶えていませんが、七、八万位になったかと記憶しています。
初任給が三万円を切れる頃だったと思いますから、大変な金額。

その男は、私が働いていた間、二度と新大久保駅に顔を出しませんでした。
御褒美でも出るのかしらと思っていましたが、お茶を入れてくれてお仕舞。
一ケ月半か二ケ月位の短い期間でしたが、同じ時間内で私が一番捕まえたような気がします。
駅長室迄連れて行かれたのは、確かもう一人いました。

やっていく内に鉄道学校の生徒が尻押しをしていたのは、それだけの理由で雇われているのではないという事が
判って来ました。
新大久保の場合、宿直制があったのかどうか知りませんが、早番の人は四時半位から準備を始める訳で、
あのラッシユの押しくらまんじゅうに加わると、その後はクタクタになってしまいます。
そこで実習を兼ね、学生に改札だとか、アナウンス、プラットフォームの見張りをやらせ、
一休みする時間を作っているんです。 勿論、本職の駅員さんが必ず一人は付いていました。

しかし出札は現金を扱う仕事で、駅名、路線にもかなり詳しくなければならず、学生の出る幕ではありません。
学生の労働時間は確か七時から九時迄でしたが、その後も居たい分は勝手、という感じで、
暇な日は改札を三十分位余計にやったり、プラットフォームでブラブラしたり、駅員室で休んでいる駅員さんに
お茶を入れてダベッていたりしてました。 他の学生は十時頃迄いたようです。

或る日、一番のラッシユが終った頃、高田馬場駅から変な連絡が入って来ました。
もうはっきりと憶えていませんが、目白か高田馬場辺りでドア開閉装置が故障し、
駅員がロープを張ってドアの内側に立つので、新大久保の駅から新宿迄の乗り継ぎの駅員を出してくれないか、
というような内容でした。
新宿には検査係の派出所があり応急修理が出来るのです。

電車が例のカーヴの所に見えて来ました。 進行方向左側のドアには異常はないように思えます。
やがてプラットフォームに入って来るのを見ると確かにドアが一セツト開いたままです。
一人の職員がロープを持って内側に立っているのが見えます。 何人かのお客さんが降りました。

さすがにこのドアから乗り込む人はいません。
最初の話では、駅員さんが行く筈だったのですが、どうした事か助役さんから私に行けという命令が出てしまいました。
経験の一番少ない者が行った方が、又々混雑してきたプラットフォームを整理するのには良いだろう、
という判断のようでした。

一度位はドアのない車両に乗るのも面白い、と乗り込みました。
そのドアの、座席端の握り棒と握り棒を結ぶ線迄は無人、その奥では乗客が尻込みして押し合いへし合い、
座席のある側は身動きもとれない様子、一寸滑稽な気もしました。

さて、二人の駅員さんがドアの両側の握り棒の間に新大久保駅装備のロープを通してくれたのはよいのですが、
縛る時間がありません。
これ以上遅れると新宿駅のプラットフォームは大変な事になってしまいます。

「宜しくお願いな。 直ぐに戻って来なくても良いから。 気を付けて」
ロープの両端を両手に巻き付け、
「では、行って来ます」

電車が動き始めました。私の後ろ 1 m位の半円形上に人がまるっきりいないのが感じられます。
速度が上がるにつれ、風がピユン、ピユン入って来ます。 制帽は飛ばされないようにアゴ紐をかけておきました。
普段はそんなに感じない揺れが、今回はやけにハッキリ判り、体がグン、グンと振れます。
やがて電車は中央線を跨ぎ始めました。
そもそも中央線自体が高架なのですから、その上を通る山手線はもっと高い所を走ってる訳でして。
10 mは確実にあるでしょう。
小さ目の地震の最中に、三階建てのピルの屋上のフチに立っている、とでも想像して頂きましょうか。
別に高所恐怖症の気がある訳でもないし、高い所は好きな方でしたが、
この時だけは下の方を見ないようにしていました。

速度が出てないとはいえ、自分の足元 10 p先が時速 30 q位のスピードで動いているというのは
気持ちの良いものではありません。
物好きな人も居るもんで、ロープが引っぱってあるので安心してか、手摺につかまって首を出して絶景の景色を
見ている始末。 (車体から首を出している訳ではありません。 念の為)
別に好き好んでパノラマ・カーに乗ってるんじゃないわい、とつぶやきたい位。

他の人達もギユウギユウ詰めは嫌なのか、人の輪が少しづつ少しづつ、私に寄って来ます。
おまけに、あそこは外側カーヴになっており、遠心力がジワジワと効き始め、体が押され出されそうになります。
もうこの頃になると乗客も慣れてしまったのか、背中にぶつかって来ます。
「危険ですから押さないで下さい」 とわめき散らします。
本当に危険なんです、若し私の手が緩んだら、ロープは縛ってない訳ですから、誰かが、といっても私でしょうが、
電車からはみ出てしまいます。

高高架を駈け降りる頃にはロープも大部緩んで来まして、私の体も電車の揺れに合わせてフーラフーラ、
スイングし始めました。
しかしもう大丈夫、もう何百m かで新宿駅です。 と思ったら一難去って又一難、ポイントの事を忘れていました。
ガタガタガタと揺れる度に、ロープがキュッ、キュッと緩み、というよりは、
ロープを引っ張っている私の体力の限界になってきた訳で、今度こそは本当に生きた心地がしませんでした。

反対側のドアから客がドッと降りて行きました。
此処で誰かに引き継ぐ筈なのですが、誰も来ません。
度胸で、もう少し行ってやろうか、と腹に決めだしていたら、アナウンスがありました。
「この電車は、当駅止まりになります。回送電車になりますので、お降りになって次の電車に御乗車下さい」
これ以上遅らせる訳にはいかない、という事で回送扱いにしたようです。

それにしてもその日の新宿駅は混んでいました。
私はロープを抱え、人ゴミの中をかきわけ、かきわけ半分フラフラになって、外回りのプラットフォームに向かいました。
プラットフォームでも電車の中でも、乗客が変な目付きで私の事を見ていました。
それはそうでしょう、未だラッシユのさなかにロープを持った駅員がフラフラしているんですから。

私が働いている間、ラッキーだつたのは飛び込みが一度もなかった事です。
一度電車がベタベタに遅れた朝があり、新宿で飛び込みがあったとか聞きました。
ある駅員さん曰く
「あれだけは、絶対に現場に居たくない。 どんな事情か知らないけど、後片付けする身にもなって貰いたいもんだ」

楽しいアルパイトでしたが、引越しを又した為に、やめざるを得なくなりました。
駅員室に挨拶に行きました。
助役さんが暇な時には遊びに来い、と言ってくれました。
改札係曰く「何時でも改札口、フリーパスだよ」
「ここで通してくれても、降りる駅でどうしたら良いのですか」
ニャッとした笑顔が彼の返事でした。

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