尻押しのアルバイトのお話

こんな私でも大学には入りました。  しかし教えていたのは高校で習っていた事ばかり。
多くの授業は大教室でマイク付き。  映画研究の為に、と取ったフランス語ともなれば、
アテネ・フランセで週三回の会話コースを取った私の発音の方が上。
どうにも馬鹿臭くなって一ヶ月程で通学をやめてしまいました。
この間、山手線は新大久保の駅で尻押しのアルバイトをしています。 例の落語の 「しんおおくぼー」 です。

どういうきっかけで、この仕事にありつけたのかは、よく憶えていませんが、大学で知り合った学生がやっているというので紹介して貰ったというような事でしょう。
一つだけ記憶にあるのは、助役さんに
「アルバイトは、鉄道学校の生徒が優先で、普通の学生さんは、安全問題の事もあり、余程人が足りない限り雇いっていません。」 というような事を言われた事。
鉄道学校の学生の場合、就労時間が実習として単位に含まれるという事もあったようです。
ともかく、あちこちの機関区の見学もしているし、国鉄が大好きだからとか、懸命に説得をして
数日後 OK の返事を貰ったような気がします。

最初の日は制服貸与、そして細かな注意事項。 一度は着てみたかった国鉄の制服でしたので、
少々サイズが合わないにも関わらず、ニタリ、してやったり、幸せな気分でした。
早速先輩の学生達を見習いながら、尻押しを始めました。

その頃は、もうそろそろ尻押しから、ひっぺがしに変わった頃だと思いますが、失礼があるといかんから、
我々学生共は尻押しに専念しろと言われました。
若い学生の事とて、知らず知らずに女性の胸に手でもかけてひっぺがしをやったら、お互いに困るであろうとの親心。
ひっぺがす位なら、始めから押し込むな、ですが。

私の持ち場は内回りの真ん中より新宿寄り、もっとも尻押し軍は全て内回りに配属されていました。
外回り池袋方面行きはそんなに混まず、余程の時は二、三人がドアの閉まらない車両に駆けつける事で用が
足りたのです。
とにかく当時の通勤電車は大変に混んでいました。ラッシュのさなかにプラットフォームに立つのは初めて、
といってもいいでしょう。 未だ一番混んでいる時間帯で、プラットフォームに上がった瞬間どうしてよいのか、
暫く立ちすくんでしまった程です。
あの頃の乗客は今より行儀よく、結構割り込みもせず並んでいました。
こちらは電車が着いてもドアの外側に立っているだけという感じ。
本領発揮は 「発車しまーす。」 というアナウンスが出た瞬間から始まります。
その途端にドアに辿り着いていた数人の客が一勢に体当りの体勢で体を押し込みます。
とはいえ車内は身動きも出来ない状況、体全部が入る訳がありません。
それをここぞとばかりアメリカン・フットボールよろしく肩の方から押しまくる訳です。
一寸体を斜めに構えて真っ直ぐ入ってくれる人は良いのですが、困るのは後向きに乗り込む人達。
これは若いサラリーマンに多いタイプ。
乗り込み方は、腕を上げ、ドア開口部の上を手で押さえて腕立て伏せ宜しくグウと力を入れれば、
お尻の方から体は入る、という事なのですが、超満員の事、そうは問屋が卸しません。
こうなると押し難しいんです。 後向きなら肩でも尻でも腕でも押せるのですが、前向きだと、そうもいきません。
まして血走った目が自分の目の前にあるのですから。
この時、乗客の顔を絶対に見てはいけないのです。
ですからどんな表情をしているのか、ワタシには判りませーんし、知りたくもありませーん。
女性の場合はもっと困ります。背中をこちらに向けて入っても、押す所は背中と肩だけ。
背中でもブラジャーの紐の下の辺り迄。 間違つてもお尻を押してはいけないのです。
後向きで入られるともっと困ります。
大体は小さなカバンをお腹や胸の前に抱きかかえるようにしているのですが、そうなるとますますもって押せる場所が
無くなります。
公衆の面前で痴漢行為はできませんし。 そういう時に男性が向こう向きに入ろうとしたらもうこっちのもの、
背中、お尻、所構わずグイグイ押し込みます。
それでもはみだしそうな時は、もう閉りだしたドアに合わせて、トランクに服を詰め込む要領で少しづつ少しづつ
押し込んでいくしかないのです。
電車が遅れる原因になるので、なるべくそういう方法は避けるように、との指示はあるのですが。
まあ、こんな状況下で最後に乗り込む女性はそんなには居ませんでしたが。
最初の方で乗り込めなかった女性は、恨めしそうにドアと時計をにらめっこ、次のチャンスを待ちます。

自分の持ち場の車両のドアが閉まり、ドアの横に付いているドア開閉確認ランプが消えるや直ぐ隣の車両のランプも
確認です。もし全てのランプが消えていれば、電車が動き出す迄のほんの一寸の間がホッとする時でしょうか。
こんな時何となく車内を見てしまいます。 押し漬された顔、あっちに行ってしまった腕。気の毒な風景です。
なるべく車内の乗客とは目線を合わせないようにしていましたが。
幸いな事に私達には、動き出した電車を見守る義務がありました。
電車の進行方向の反対側を見て異常が起きないかチェックするのです。
尻押し全員が同じ動作をしますので、一編成全てカヴァーされる事になります。
自分の前を最後尾車が通過する時、車掌さんに挙手の礼をとります。
何故必ずしなければならないのか知りませんが、見ている人には一寸格好良いでショ。
そして通過した瞬間、挙手をしていた手をそのまま前に伸ばし、次の電車がやって来る方向を指で差しながら確認、
そのままの姿勢で百八十度回れ右、去って行く電車の窓を指します。
時々車掌さんと目が合います。 そんな時は一寸嬉しくなってしまいます。

高田馬場から新大久保にかけて、内側に向かった緩いカーヴがあります。
電車がプラットフォームから出ていった後、目をそちらに向けると、もう次の電車が見えているのです。
混雑のひどい時なんぞ、二編成の電車が同時に見えています。
こんな時は悲劇。イエ、我々の事ではありません。 お客さんです。
こんな朝はラッシュ時が過ぎると、必ず線路の上に何か落ちています。

まずは女性の靴。 ロ―・ヒールとしてもオフィス用の靴。こんな靴では脱げない方が不思議な位。
乗る時、押された拍子についヒールがドア・レールに引っかかるのでしょうが、拾い上げながら、
今頃この人はどうしてるんだろう、なんて考えてしまいます。ビッコで出社もできないでしょうし。
まだましなのは、乗り込む際に靴が外れ、乗るのをあきらめる人。
但し、会社には絶対遅刻です。 というのはラッシュのピークには二分三十秒間隔位で電車が運行していましたから、
実際に電車がプラットフォームにいない時間というのは二分そこそこ。
勿論、入って来る電車の前でゴソゴソする訳にもいきません。
落し物を引っ掛ける器具はプラットフォームの柱の何本かに掛けてありますが、
それを取りに行く時間も無い時があります。
そんな時は半べそかいている女性を脇目にしながら、せっせ、せっせと仕事に精を出し、
あなたなんかにかかわり合っている暇はないんだ、という態度を取ります。
はっきり言って、そんな暇は本当に無いのです。 ごめんなさーい。
時間によっては、そんな女性、十分も二十分も立ち尽くさなければならないのです。
歯がゆいのですがどうする事もできません。

結構大きな物でも持ち主から引き裂かれるようで、私の記憶では小さ目のカバンもあったように思います。
田舎の駅ですと駅員が列車の出た後、低いプラットフォームからヒラりと飛び降りて拾っていましたが、
通勤電車区間では一寸無理。
さん結構御存知ないのですが、電車のプラットフォームは以外と高いのです。
レール面からドア迄一メーター二十五近くあり、これにレールの高さを足し、その下が足場の悪い砂利とあらぱ
一メーター七十五の私でも、よじ登らなければならないというみっともない破目になってしまいます。

線路から物を拾うのは、先がハサミ状になっている長い棒、手元のハンドルで物を挟んで拾い上げます。
これに似た物は、アメリカに来た時に、あちらこちらの店でみかけました。 逆に高い所の商品を取る為です。
その頃ほとんどの日本の店では、棒でかき寄せて落していました。
もっともこれは客へのサーピスというより、変に触られて何か落っこちて従業員や客が怪我でもすれば
訴えられる可能性がある、という事から来ているだけで、
実際に、ある店でこれを使って積み上げてあるトイレット・ぺーパーを降ろしていると、従業員がすっ飛んで来て、
これにエンプロイーズ・オンリイ(従業員専用)と書いてあるだろう、と言われました。
日本の店でも最近は置いてあるようですが、どうもこれは従業員の手間省き用。 国情の違いがあるようです。

二,三日行って慣れてくると、先輩達がアナウンスや切符切りもやっているのに気がつきました。
聞いてみると、ラッシュが一段落すれば、実習の内だから、駅助役の判断でそのような業務も許される、との事。
私なんぞは別に実習に来ている訳ではないし、逆に言えば、学生のアルバイトがアナウンス等をしている方が、
お客さんと顔つき合わせて押し合いへし合いしているより乗客の安全には良い、等という屁理屈を考え、
助役にお窺いをたてました。
「他の学生さん達と相談しなさい」という返事で、早速二、三人に聞いてみました。
皆、良い奴で異議無しだったのですが、矢張りどうしてもマイクを放したがらないのがいまして。
それでも二、三回やらせて貰いました。
アナウンス室はプラットフォームの新宿寄りにある小屋のような建物ですが、階段をいくつか登ると
三方がガラス張り(だったと思います)、とにかく良く見えます。
座った高さでもプラットフォーム面から二m以上あるでしょうか。

この時間ですと列車間隔もすこし間延びした感じになります。
プラットフォームにある 「次の電車は高田馬場を出ました」と いうサインに電気が点いて間もなく、
カーヴの所に電車が見えて来ます。
マイクのスイッチを入れ
「間も無く新宿方面行きの電車が入って来ます。白線の後ろまで退ってお待ち下さい。」 とやる訳です。
マイクのスイッチはこまめに切ったり入れたりする事を忘れてはいけません。基本的な事なのですが。
或る日、誰かがスイッチを切り忘れました。
ホッとして仲間と話しているのが大きくプラットフォームの上に流れました。 三十秒位の間ですが、
助役さんがすっ飛んで行きました。疎らになったお客さんは苦笑しています。

「間も無くドアが閉まります。 無理な御乗車はおやめ下さい」 と次のアナウンスになるのですが、
上から良く観察してタイミングを計らなければなりません。
間違えると無理に乗り込もうとする人の数が噌えてしまいます。
先に書きましたように、これはラッシュが過ぎた後の事です。

上から人の流れを見ているというのは、結構良い気分なものです。
昔は交通整理のお巡りさんが交差点のまん中に台形の箱を持ち出して、その上から流れを指示していましたが、
さぞかし気分が良かったのではないでしょうか。

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