白紙

           金持の話

 こちらに居て金持ちの生活を三人程垣間見る事ができました。 一人はアシスタントをしていた時のボスの居候先。

コネティカット州のリッチフィールドと言えば金持ちが住んでいる事で有名な地域。
或る日撮影で、ボスとアート・ディレテクターのお供をして、ボスのコテージを訪問する事になりました。

リッチフィールドの街を通り過ぎ、両側、林と野原の道を暫く走っていると、腰の高さ程に石を積み上げた塀らしきものが左手に続き出しました。内側は切り開かれた原っぱ。
間もなく塀の切れ目を入り、右に左にと緩くカーブする道沿いに走ります。 向こうに木立が見え、石造りのヨーロッパ風のマンションが見えてきました。
車はそちらには向かわず、100 メーターも離れた右側の小さな家に向かいました。
ここ迄何と二、三分。 入って来た所はもう何処だか見えません。

このコテージ、日本風に言えば、客用の離れ、とは言え広さは 100 平米程もあるでしょうか。
簡単な造りで、長手方向に寝室、リヴィング・ルーム、キッチン、小さな寝室にバス・ルームとなっていたような気がします。 

リヴィング・ルームのガラス戸を開けると、数歩先には 10 メーター程のプール。 アート・ディレクターは服を脱ぐや否や、早速ドブン。
春先で日が強くても、少々薄ら寒い気候でしたが、プールからは湯気が。 真冬でも泳げる温水プールでした。

その向こうには人造池。 大した大きさではありませんが、家の倍位の大きさ。 小さな島にはボートがのっていました。

バスルームに行くと座った目の高さに小さな中世紀に描かれた風景画のデッサンがかかっています。
勿論本物でしょうし、安い物でもなさそうです。気軽にポンと下がっているので、あっけに取られました。

馬が撮影に必要だからという事で、一休み後、車に乗り込み、敷地の裏の方に回りました。
そこには馬数頭を飼える厩舎があります。
外にはグルグル回る柱にロープが取り付けてある馬運動用の道具もありました。
馬を世話しているのは若い女性、アルバイトではなく馬専門の常勤です。 他に庭師も常に雇われているとか。

本館も入れると数人はこの敷地内で雇われているようです。
この馬の世話人にはジープが仕事用に与えられていました。 馬はもう二頭準備されており、ボスとアート・ディレクターは馬に跨るとさっさと行ってしまいました。
追っかけようにも間に合わず、ジープを出して貰いました。 何の仕事で行ったのか、もう忘れましたが、
二人は 20分程馬を走らせて遊んでいました。
前の敷地は直線コースでも相当な距離。 1 Km 以上あるでしょう。 母屋の方には行く機会はなかったのですが、
室内プールにテニス場もあるとか。
持ち主の名前は聞きませんでしたが、どんな人かと尋ねると、個人所有では世界一大きなパルプ会社社長の
アメリカの家だとか。


ボスは 21クラブあたりの高級レストランで知り合い、それから客人として招かれたのだとか。
ボスは、その頃 27、8でしたが、オーストリア男爵の次男坊、背の高い、色の浅黒い美男子でドイツ語のなまりは取れなくても、英語、フランス語、イタリア語もしゃべれる、何処から見ても格好が良く品も良い男。
貴族の出身だけあって、正式な名前は10 以上のミドル・ネームがつらなった長〜いものでした。
苗字も含め、私が覚えたのは4つ。

男爵はオーストリアの城に住んでおり、写真を見せられた事があります。
城の目の前が湖。 裸で飛び出しても何の遠慮も要りません。
地下には先祖代々の墓所。 頭蓋骨が並んでいる絵葉書を見せられた事もあります。

車が好きでマンハッタンにいる時はシトロエンの確かサファリというモデル。
何故か、私は日本にいた時からシトロエンとは縁があったようで、これを含め三車種にしょっちゅう乗せられていました。

このサファリ、当時まだ珍しいグラス・ファイバー製ボディで、昔のオープン・タイプのジープに似ています。
徹底的に軽く作られ、ボンネットは指程太い輪ゴ ムで留めてありますし、ドアも寒い時は別としてチェーンをかけるだけ。
もっともキャンバスとヴィニールのドアですから風が直接吹き込まないだけの話。
マニュアル・トランスミッション・レヴァーは、ダッシュ・ボードから水平に突き出ているシトロエン独特の小さなもの。
上手な人は指先でシフトをします。
この真っ赤な車、マンハッタンでもかなり目立っていました。何故なら、当時これ以外には二台程しか見ていないのです。

昔の日本の軽よりは大きなエンジンでしたが、まあ有効最大速度は 65 マイル(104 q/h )というところでしょう。
60 を過ぎるとボンネットがハタハタと波打つのが判ります。
サハラ砂漠を横断したとかで有名になった車。 しかし安全性とかの問題で輸入出来なくなり、生産も中止。
ワーゲンの不格好なオープン・カーが再現されているのですから、改良して販売を続けていたらと思います。

彼のカウントリー・カーはACコブラ。
正確な事は忘れましたが、1968年頃に80台程しか作られなかったオープンのスポーツ・カー。
アルミ車体でフォードの4リッター程のエンジンを積んでいました。
これ又真紅の、古いMGのように優雅なカーヴをもったデザイン。

マンハッタンには二回乗って来た事がありますが、低速運転の連続で、二回共冷却水を騰げていました。
一回はスタジオの前。 バケツに水を、と飛び込んできたので何事かとバケツ片手に飛び出てみると
ラジエターから白い蒸気が。 さすがはマンハッタン、野次馬がワッと集まります。
エンジンを冷やすより野次馬の整理の方が大変。
車体が大変に低く、マンハッタンの悪い舗装、二回共、下を擦ったと言っていました。
さすがに、この車は外側を触らせて貰えた程度、一度も乗せて貰った事はありません。

アメリカでは運転出来る道がない、とその夏にヨーロッパに送り返してしまいました。
スイスからイタリーにかけての道路では 150マイル( 240 km/h )で飛ばせれるんだ、と言っていましたが、
次の年お城の側の川にドブン。 車体の損傷は大した事なかったようですが、引き上げるのと、走行関係の修理にエライ金がかかったそうです。 親は別として、彼自身はアメリカの標準では金持ちとは言えません。



次の金持ちは彼の仕事の関係で見た人物。 或る日ヴォーグ誌から電話。
以前に撮影した写真の事で用件があるとの事。
ボスは早速シトロエンでお出かけ。 何の事かと思っていましたら、以前彼が撮影をし、
ヴォーグで生活を紹介された実業家が亡くなったが、奥さんがその時の写真を気に入っており、コピーが欲しいとの事。
本来ならネガからプリントをするのですが、印刷になったものは修正が相当施されており、修正迄は手がまわりません。 で、印刷用プリントを雑誌社から借りて来て、そのコピー。

勿論こんな仕事は私の役割。 驚いたのは普通ですと、こんな仕事は当時 50ドル位が相場でしたが、
奥さんがオファーしてきたのは確か 250 ドル。 1ヶ月のスタジオの家賃分、もしくは私の週給の3週間分。
この頃 1ドルは、まだ 360 円でしたっけ。 

写真が出来上がると、お前も付いて来い、と言うのでお供。 技術的な事は私に任せっぱなしなので、何かの為にと思ったのでしょう。 
向かうはワードルフ・アストリア・ホテル、と思いきや、パーク・アヴェニューを東に曲ります。
何で裏口に、と思っていますと、ワードルフ・タワーというサイン。 
聞けば、ホテル住まいの客用に用意してあるセクションで、ホテルとは従業員用通路以外つながっていません。

私達が行った部屋、というよりアパートメント (日本ではマンションですか) は執事と秘書もいましたから、
マスター・ベッド・ルーム以外にベット・ルームが二つ、三つあるようでした。
ワルドルフのこの階の 1/4程を占めていたのでしょうか。
キッチンはありますが、ホテルのルーム・サービスがそのま使え、飲み物を持って来て貰った記憶があります。

リヴィング・ルームの暖炉の上を見れば、ティファニーの名が入った置き時計。
レザー貼りのデスクの上のペーパー・ナイフから、便箋に至迄、ティファニーの名が印されています。

ホテル住まいといっても、自分の好みの家具等を運び込み、生活の匂いがするのです。
しかし全てが高価なものばかり。 アンティックで通用する家具が並んでいますし、絨毯も古い手織。
部屋中金色が目立ちました。中身だけで当時の日本で家一軒位建ったのではないでしょうか。
ボスと品の良い老婦人が写真を見ながら四方山話しを暫くしている間、ボケッと見回していました。

暫くして未亡人は小切手帳を出すと、これ又ティファニーのペンで (ボール・ポイントではありません) サラサラと書き込み、それでお終い。
ビルから出た後、あそこに住んでいるのか、とボスに聞いてみました。すると、あれは単なるマンハッタンのアパート。 ホテル形式だから、掃除も、食事も心配いらない。 それにお前は雑誌の写真を見たろう。 あれはニュー・ジャージー州の自宅の庭で撮ったんだ。 広大な地所で、温室や馬の牧場もある、とか。

亡くなった方は日本にいた頃でも名前を聞いた事がある鉱山会社の持ち主。
当時、アメリカでは珍しい日本的な商社も保有していました。



ニュー・ヨークでは大会社の社長は、マンハッタン内にアパート、郊外に大邸宅という形式が多いようです。
最近は逆に、大アパートにヴァケーション・ハウスを一、二軒持つという人も増えたようです。
知人の紹介で日本の内装デザイン雑誌に隔月、ニュー・ヨークの生活という事でアパートや家の内装写真を1年半程
送った事があります。

その内の一軒は、パーク・アヴェニューに当時建ったばかりのビル内のアパートで、オーナーに撮影許可を貰いました。
大きなビルではありませんが、一階につきアパートが二つづつ。 
はっきりした相場額は憶えていませんが、郊外の標準的な家が二軒買ってもお釣が来る程と記憶しています。
メイドの部屋にラウンドリー・ルーム、台所の収納室と、付属の部屋も多いですし、マスター・ベッド・ルームの
ウオーク・イン・クロゼットの中には、大きなメークアップ・テーブルがあり、日本のちゃちな一部屋アパートが入ってしまう程。

高価なモダン家具がすっきりと並び、綺麗に整理されて生活の匂いはしていませんでした。 聞く所によれば、
大製紙会社の社長が購入したもので、自宅はコネティカット州にあるのだとか。
週末家族が使ったり、社用での個人的なパーティや接待に使うのでしょう。 
高額過ぎて空きが目立ったビルですが10年後には4倍の値で売り買いされていましたから、投資として考えれば大したものです。 (この項の、最初の人物とは異なると思います)



パーク・アヴェニューの 60ストリート代から北は、戦前からの古いアパートメント・ビルが立ち並んでおり、
フィフス・アヴェーニューのアパートと並んでステータス・シンボルになっています。

幾つかのアパートの内部を見た事がありますが、戦前の建物ですから、必ず執事とかメイド用の小さな部屋が
ついており、パーティーは生活上の必要要素なので、キッチンは大きく、ダイニング・ルームも仕切りを外さなくとも
10人位軽く座れるサイズになっています。 

勿論リヴィング・ルームもそれに準じた大きさ。 食器、食料品の収納庫も大きいですし、勿論ラウンドリー・ルームは
スタンダード。 私が訪れたアパートではシェフが時間決めで通っていました。 このアパートの場合、ビルが小さ目なので全フロワーで一軒。 エレベーターを出ると、控え室になっており、もろに生活の場所に入ってしまいます。
これだけのアパートでも、皆が皆、高い家賃や管理費を払っているのではありません。 昔から引き続いて賃貸している場合は家賃統制法によって値上げ率が押さえられていますので、年寄りが馬鹿広いアパートに二人だけで住んでいて、家賃はタダ同然と言う事も有り得るのです、



次に書く人も、明快な返事を出し、後はお前の考えと努力で何とかしろ、というタイプ。
この男は会社の経営者でありながら、しょっちゅう画廊で自分の絵の展覧会をしている芸術家でもあります。
1986頃から 7年位の間でしょうか、縁あって彼の会社に勤める事になりました。 

会社は現存していた香水会社では最も古い会社。 ナポレオンは勿論、マリー・アントワネットもここの香水を使っていたのではないか、という歴史を持っています。
その前から雑誌用の宣伝写真を撮影をしていましたが、アート・ディレクターが、
「あの社長はヌーボー・リッチじゃ無いぞ。 本当の金持ちだ。  成り金連中と一緒に考えたら大間違いだ。
アートというものが判っているから、この会社の写真には気を抜くなよ 」 と、喝を入れられていました。

その後、彼の絵の写真コピーをして欲しいという注文が来て、彼が画家でもあるという事が判り、勤める時の条件に、
定期的に絵のコピーをするという項目が入っていました。
私が入社した時はまだ会社も景気が良かった頃。 セントラル・パーク南に接するアパートメント・ビルに会社の所有するアパートがあり、ニュー・ヨーク・オフィスとなっていました。

社長がいる本部はニュー・ジャジー。 フランスには直営店と工場があり、カナダ、イギリスにもオフィスがありました。
フランスの香水会社だけれども、何処が本社なのかと、聞いてみた所、
社長がその時に居る所が本社だと怒られました。

絵のコピーは月に一度程の割合で来ましたが、古いものは何と1947年。 私の産まれた年です。
あるはあるは、今現在でも描き続けているのですが、絵は全て前衛、ダリなどの影響があったようです。
聞いてみればフランスでデュシャンプとか、カルダー、コクトー等と同じグループにいて元々は絵描きだったそうです。
彼のスタジオに行きましたが、これ又最高の条件。
会社のアパートから歩いて二分、 矢張りセントラル・パークに面していますが、こちらはもっと上の階。

パーク側は二階分吹き抜けで、天井迄窓が続いており、パークの北端から大空が続き、素晴らしい景色です。 北向きなのでアーティストには最適。
内部に 「マイフェア・レディ」 のヒギンズ博士の応接間のようなバルコニーが付いおり、綺麗に整頓された中、彼の絵、彫刻から美術誌迄ぎっしりと並んでいます。
50年代には日本からのフルブライト留学生の美術部門審査をした事があるのだとか。

家はコネティカットの一等地。しかし平日住んでいるのは、セントラル・パークに面したフィフス・アヴェニューのアパート。これ以外にもフランスとフロリダ州にも家があるというのですから。

会社の景気が悪くなってから、彼のフィフス・アヴェニューのアパートに呼ばれました。
持ち出せない絵のコピーをしてくれとの事。 これには少々不満でしたので、文句を言いながら行ってみると、
名画が壁にかかっているではありませんか。 マティスの静画、それにデガのダンサーの原画のデッサンが数点。
花瓶とかには興味のない私ですが、家具にしても古いものばかりのようです。
しかし撮るのはマティスの他一点だけ。 売りに出して会社の運転資金を作る為、と直ぐに判りました。
物が物ですから売れたかどうか、又、幾らの価値が付いたのかも知りません。

その後会社を手放す事になってしまいましたが、90歳以上の今でも、スタジオに通って毎日の様に絵を描いているようです。 半年前に会った時も、時間が無い、時間が無い、まだ描きたいものはいくらでもあるんだ。 自分の表現をし終わらない前に死ななければならないとしたら残念だ。 と何回か繰り返し言っていました。
(私が帰国した2007年に交通事故に遭い、それが元で、暫く入院後、亡くなったとの事。 もう一度お会いしたかったのですが)

彼と私の逸話を一つ。 私は彼をビジネスマンとして、又、芸術家としても、尊敬しています。
彼は彼で芸術家肌の私(自分では職人だと思っているのですが)の部分をリスペクトしていると言っていました。
突然入社して来た私。
社長とかなり対等に話をしている私を見て、他の人は疑り深い目で見ていました。
私の予算は社長から出ていますから、週に一度は、社長秘書に会って雑談をするから余計です。

或る日、ここの一番高い香水を、日本の旅行者に売ったらどうだろうと話しをしてみました。
タックス・フリー・ショップはカルテルみたいなもんで、ディスカウントが厳しく、出したくはない。
ニュー・ヨークでも一店限定、全米でも40軒位の特定デパートで売っている香水については、信用を崩すような商売は
したくない。
まずお前には実績が無い、とセールスのVPと副社長辺りから返事が返ってきました。
それならと、毎週のように、私のつたない英文の企画書を他の課の秘書にタイプし直して貰い、
社長秘書に渡していました。 

丁度日本はバブルの真っ最中。 色々な記事を集めては、自分の考えや予測を纏めていたのです。
日本にも進出を考えているという話しを聞き込んで、それに対しての意見書も作ってみましたが、
副社長は鼻にもかけません。
私は日本にコネクションがかなりあるのですが、と吹きかけても、アジアはイギリスにまかせてあるし、
イギリスのアジア代表は優秀な男でもう何年も取り組んでいるんだ、お前の出る幕ではない、と一蹴されてしまいました。

もう何年もやってるなら何をやっていたんだ、と言いたいのを堪え、そう言われるとますます意欲が湧いてしまう私。 
とうとう或る日廊下を歩いている社長を捕まえて、私の企画書を読む機会があったか聞いてみました。
面白いから、副社長にまかした、との事。私が絶対に自信があるからやらせてみてくれ、と言うと、二、三日後に返事をしようとの事。
そして呼ばれました。 会議室には社長と副社長、VPが数人。
社長が口を開きました。
「殆どの者は反対なのだが、自分はやらせてみようと思う。 しかし、会社は一切サポートしないから自分で全て
やってみろ。 卸値とか詳細は秘書に確認する事。」
それでお仕舞い。 鶴の一声です。
秘書と相談し、社史や香水の歴史を調べ、友人に日本の店を紹介して貰い、私のゲリラ戦が始まりました。

トップの二つのブランドは、特定デパートの専売契約がありますから、
それらの店に知られないよう動かなければなりません。  
ディスプレイ・スタンドや日本語の宣材も自分でデザインをし、作って貰いましたが、
この資金は社長予算から出ていたようです。

この事業、カナダの友人等のお陰でかなりの成果を挙げたのですが、湾岸戦争が始まり、日本人の観光客の激減、
次いで副社長の横槍で立ち消えとなってしまいました。 
始めた次の年には地方のデパート1軒の売り上げなんぞより、よっぽど良いと言われたのですが。

そう言えば肩書きも作ってくれました。
肩書きがないと動き難い、と秘書に相談に行くと、30分後には社長に呼ばれ、
極東地区マーケティング、セールス・ディレクターという肩書きでどうかと言われました。
「この会社にはマネジャーという肩書きはあっても、ディレクターという肩書きは無い。
マネジャーだとVPになるし、給料も上げなければならんからな。 これで丁度良いだろう。ウフフ。」 でした。
勿論給料を上げて貰う為に始めた事ではありませんから、社長のジョークと理解しました。
もっともボーナスが一度出ました。

ワンマンでも視野があればそれで善し。 良いと思う案は直ぐに実行に移す。 ランクには関係がありません。
一番悪いのは、皆の意見を聞いて取り入れるから、と意見は聞くくせに、結局は誰の意見も聞かない経営者です。
度重なると、もう勝手にしろ、アイデア等出すか、という事になり、失敗した人もいます。
アメリカでも、社内、社外を問わず、人間関係をしっかり掴んでいる会社は強いですね。




現在、日本で、アメリカ国内の病院への健康保険金支払いにまつわる投資詐欺容疑の話が紙面を賑わしています。 最初に読んだ時、何だ、ファクターの話ではないか、と頭によぎりました。
ファクターとは、しっかりした相手への請求書を持ってはいるが、支払に時間がかかる場合に使う金貸しの事です。

トップの写真家を除き、1970年代は景気が悪く、フリーの写真家のかなりの数が自転車操業。
入った金は使える金、とドンドン使います。
アート・ディレクターと飲み食いをしなければならないし、材料費は、70年代に稼いでいた連中 (バカでも仕事が来た、
と言われていました) は信用買いで月払い (広告写真に関しては、80年代位から材料費、機材レンタル費を
クライアントに請求するのが当たり前になり、メッセンジャー代、ベタ焼き代迄を請求する写真家が出て来て
、そこ迄やるか、と少々頭にきましたが)。
フリーのアシスタント (ロケ時の単なる荷物運びにしても) は、その場で現金払い。
金銭感覚が鈍った連中がかなりおり、廃業に追い込まれた写真家が相当いました。

私は現像も自分でし、フィルムもケチっていましたが、やはり自転車操業。
どうしても次の撮影の為の資金が必要となり、友人に相談をしてみました。 そこで紹介されたのがファクター。
名前の知られた広告代理店への請求書ならば、3ヶ月待ち迄は 15% 引きでパーチェーズ・オーダー(発注書)を
買うとの事。
たまたま大手の仕事をした後で、支払も請求書到着後1ヶ月程で払う、と好条件だったのですが、
待てないものは待てない。
アポイントメントを取り、パーチェーズ・オーダーを手にノコノコとでかけてみると、相手は何と、片手間に
モデル・エージェンシーを経営している男。

住所は忘れましたが、アップタウンの高級アパートのペントハウス。 屋上には、ガラス窓とガラス・ドアが多く、
キッチンとバー設備等を含め、増設された建築物。
周囲には木々のプラントとデッキ・チェアが置かれており、パーティに使われている様子(此処を見せられたのは、
後程、私が日本のエージェンシーにモデルを送る事になってしまってから)。 景色は抜群。

本人は冴えない風体の人物でしたが、これも金持ちの一人。
15 % は矢張りきついので数回世話になっただけでしたが、彼も心得たもの、自分のエージェントとして売って貰いたいものがあるが、どうだと声をかけられました。
何かと思っていると、オリヴェッティだかゼロックスの最高級タイプライター。
事務用にはゼロックスのコンピューターが既に発売されていましたが、パーソナル・コンピューターの時代では
まだありませんでした。
写真家相手にしても大して売れそうもなく、特に自分の知り合いでは無理だと言うと、頭に入れておいてくれれば
それで良いんだ、でお終い。
製造中止となったか、倒産した販売店からの購入品と思われましたが、タイプライター以外にも相当抱えている様子。 金が無ければ買占めは出来ませんから、資金力はかなり有ると思われました。
机の上は書類の山。見ただけでは何処にどの書類があるのか。
暇なモデルの卵に指示してはいましたが、全ては彼の頭の中にあるようです。
情報力が凄いのでしょうね。 彼の本業は知りません。

そう言えば、彼のアパートメントもワン・フロワーでした。
その一部で寝起きし、気が向くとロング・アイランドの別荘へ行くとか。
その後の話ですか? モデルの事で何度も会いましたが、タイプライターの話は二度と出ませんでした。
机の上にはタイプライターが置いて有りましたが(最初に会った時には少々安いタイプライターが置いてありました。
自分用を除き全て捌けたようです)。

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