1971−1972 

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 写真左: シカゴ・ループの電車。 セント・ルイス・カー社1950年製。  写真中: ブルー・ラインの地下鉄駅(多分ラサール駅)と思います。 

 写真右: シカゴのラサール駅(シカゴには当時乗換接続のない6つの終端駅があった)。1981年に取り壊され、新しいビルとなった。        シカゴ地区の通勤鉄道(メトラ。州の補助で列車を運行。線路は鉄道会社所有)の終点の一つ。非電化区間の為、列車はディーゼル機関車牽引。 乗車定員増加の為、2階建ての車両が多い。 右の車両はは最後尾客車で車端に乗務員室と運転台があり、プッシュ・プルの運転を行ってい   る。 朝のラッシュ終了後で、このまま夕方迄停泊していたと思われる。何故この編成だけ機関車が反対側に付いていたのかは不明。


           
  ワシントン・DC  ユニオン・ステーションと思います。 左の写真は通常列車の普通車から。 普通車でもシート間隔が広く、リクライニング式。
  見えているのはメトロライナー。 アメリカはイコライザー付の台車が好き(?)


             
            シーボード・コースト・ライン鉄道のEMD E7A 526     ワシントン・ターミナルの Alco RS-1 59


                                           
            左写真: GG1                                                                   右写真: ペンシルヴェニア鉄道時代からの架線方式。


           
       3枚共 T-1 蒸気機関車

ターボ・トレインの項で書いたように1965年の法規で高速鉄道(特に東北海岸地帯)の開発が始まりました。 最重要課題はニュー・ヨーク〜ワシントン間の高速化。 日本の新幹線に負けじ、と連邦交通局、ペンシルヴェニア鉄道、 GE、ウエスティングハウスが1967年走行を目指して開発を進めました。  面白い事に電車方式を採用しました。 通勤電車は別として、旅客列車は機関車牽引がアメリカでは一般的でしたので。

幸いにも(?)1958年にバッド社(日本では東急車輛製造が1960年代の初めにライセンス供給を受けており、ステンレスの溶接加工、上下逆の台枠に機器を取付後、正位置に戻す---上向きで作業をする必要がなくなった---やパイオニアIII型台車等目を見張るものがありました)がペンシルヴェニア鉄道の郊外/通勤用として開発した新駆動方式、ステンレス車体、イグナイトロン整流器を使用した軽量のパイオニアIII 型車両を製作し、1964年には一本腕パンタグラフ、シリコン整流器や新台車装着のシルヴァーライナーを供給した。 この時点で連邦鉄道局は高速試験用に改造

された4両の追加発注をし、試験を開始。1966年には251km/時の最高速度を記録した。

1968年に2両の先行車両が製作され、試験走行中に264km/時を記録した。 しかし、高速電気車両の経験が乏しかった為、初期問題が続き、

営業運転は1969年初めからとなった。 しかし信号システムと軌道状態の為、運転速度は一部で200km/時、殆どで160km/時。 362 Kmを約 3時間で運行した。 競争相手の航空会社は、イースタン航空が低料金のシャトル便を1時間毎に、他の会社も運行しており、ラッシュ時には待機線に飛行機が列をなし、空港付近の空の混雑振りには大変なものがあった。それに加えて市内での交通ラッシュを考えると、時間、又は天候によっては飛行機と大して変わらない場合もかなりあった。

最終的にはメインテナンスの問題で引退、機器を外され、西海岸などでのプッシュ・プル列車の制御車となったのも多い。 又、発足して暫く経ったアムトラックが大量の新製客車が必要になった折には、新デザインから製造迄のリード・タイムやコストを考慮した結果、メトロライナーのデザインを使用する事になり、バッド社が受注した。

全長約26m。 全巾3.2m。 重量約75トン。 交流11KV。 全電動車。 1台車2基の直流電動機はパーラー・カーとスナック・カーが GE 製の255HP、その他の車両がウエスティングハウス製 300HP。  


アメリカでの製造やメインテナンスには訳がわからない事があります。軍や宇宙産業とか特殊な分野では、他の追従を許さないようなプログラムを開発しますし、自動車の塗装でもマニアの方にはアメリカの方が良い、と70年代、80年代でも日本から輸送して行っていたと聞いています。 一方では私がアメリカに来た頃のアメリカ製TV等の組み立ては悪く、日本の会社が買収して日本式の製造方法に変えたところ、製造時の不良品率が1桁下がった(100台につき1台出るかどうか迄)とか・・・・多くの不良品が出ればラインを止め工程を繰り返さなければなりませんし。 一時の自動車産業もフォードが腰を上げ、精度の向上に取り組む迄はこんな感じだったようです。 メトロライナーの場合、どうだったのでしょうか。友人は作業員の質が悪いからメインテナンスしきれないんだ、と吐き捨てましたが。 全般的に言えば、確かに日本人の方が器用なようですが、方々の国から人が集まって来たアメリカにはすごい腕を持った職人が沢山いますし、見てもいます。 それなりの給料を払っていないのかなあ、とも思いましたが、自動車産業での給料等は悪くなかったし。 やっている職種の名前にプライドを持っていても、仕事自体にはプライドを持っていないのかな、とか。  素晴らしい職人が何人かいても、全てが電動車で数が多い電車では面倒見切れなかったのですかね。 アメリカの格言に壊れていない物には

触るな、というのと、部品を増やせば故障も増える、というのがありました。客車から電車ですから、理屈から言えば何十倍もの故障が起きても不思議は無い?


シーボード・コースト・ライン鉄道自体が合併による会社だったが、その後、CSX Transportation の傘下となっている。 当時は未だアムトラックが無く、ニュー・ヨーク等からのフロリダ直通旅客列車をワシントンから運行していた(珍しく儲かっており、アムトラックへの吸収には反対した)。
EMD E7 は車軸配置 A1A-A1A の旅客用ディーゼル機関車。12シリンダー1000HP の 567A エンジン 2台搭載、2台の発電機で4基の直流モーターを駆動させる。 1945年から1948年の間に428両、運転室無しのブースター・ヴァージョンの E7B が GM の EMD (Electro Motive Division)により82両製造された。 暖房用の蒸気発生装置を搭載。
E7 からは貨物用のF7に似た短い鼻先(ボンネット?)となっている。 形式の "E" は最初に製造された旅客用機関車が1800HPのエンジンを使用(Eighteenhundred) した事から、貨物用の "F" は1500HP(Fifteenhundred)。

ワシントン・ターミナル会社は, 1901年にワシントンのユニオン・ステーションを使用する鉄道会社の合資により、旅客列車の構内入換をする鉄道
会社として設立された。 駅構内と近辺の線路を保有。 アムトラックが発足してからはアムトラックに引継がれた。 このような形式の鉄道会社は他にもあった(特にシカゴ周辺)。
RS-1 はアメリカン・ロコモーティヴ社が1941年から1960年迄に469両製造した B-B の支線、入換用ディーゼル機関車。
全長約 17m。 機関車重量 約 112トン。 直列6気筒 1000 HP の アルコ 539T エンジン。 アメリカの機関車史上で最長の製造期間を持つ。
59 は1948年製で電気機器の供給が GE の為 Alco-GE 製とされる。(後程 GE が単独で機関車の製造を始めた為、後期のものは Alco 名だけ。日本でも 東洋/汽車、日車/富士 等の例がある) アムトラックに引継がれた後、売却されましたが、まだ現役のようです。

この形式の機関車は何台かが生き残り、手頃な事から名前を一時的に変えて、あちらこちらで動態保存の一部として運行されています。
この時は、デラウエア・アンド・ウエスターン鉄道の創立150周年記念で運行され、マンハッタンの対岸駅ホーボーケンにやってきました。
1923年にボールドウイン・ロコモーティヴで製造された形式 I-10a 蒸気機関車。 製造当初は2−8−0だったが、1945年にレディング鉄道により、4−8−4 に改造され、T-1 形と改称された。
動輪直径約 178cm。  軸重約 33トン。  機関車のみの重量約 210トン。  ボイラー圧力 16.88kg/cm2    シリンダー 約68.6X81cm。
火床面積約 8.5m2      粘着引張力 30838 kg。

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