1969年12月(写真上をクリックすると大きな写真になります。)

サン・フランシスコに着いた翌日、当時全米第一のネットワークを誇るグレイハウンドのバス (「ティファニーで朝食を」、「ミッドナイト・カウボーイ」等の映画で描写されています) で3日半乗り詰めのアメリカ大陸横断を始めました。

3,4時間おきに30分から一時間程度の補給、休憩停車がありましたが、荷物が出せず(結局到着後2日間も行方不明でした)
着の身着のままの3日半はきつかったですね。 荷物を減らす為にセーターから背広、コート迄、着れる物全て着込んでいましたから。

当時グレイハウンド社では全米1ヶ月乗り放題99ドルという切符を海外で発売していました。

           
左写真: 都市間高速バスはハイウエイ運行が原則で、踏切の横断は無いのですが、途中の小さな街に寄る場合、ハイウエイから降り、数分から
  10分程停車します。 ワイオミング州だったと思いますが、 City of Los Angeles か City of San Fransisco のシカゴ行が一瞬見えました。  
  暫くして休憩ストップ。列車の後姿を見ながら、あわててバスから降り線路際に行きましたが間に合いませんでした。  この小さな町にも停車
  したのですね。多分 フラッグ・ストップ (乗降客がある場合だけ停車) だったのでしょう。バスから見た最後尾の展望車が印象的でした。
  まだアムトラックになる前で、黄色に塗られた純粋なUPの流線型車両での編成でした。 給水塔は現役のようですが、旅客列車が遅れた時の
  暖房用水補充の為に残されていたのか、年に何回か走らせた蒸気機関車運行用なのか・・・。 1969年12月17日でしょう。 

中写真: シャイアン(ネブラスカ州) 右に見えるのがUPの工場だと思います。 

右写真: シャイアンの駅。 客車の編成はローカル用と思われ、留置されていたようです。

           
左: シャイアンでは一時間程の停車。 高架橋の手前で、木陰にビッグ・ボーイが見えたのですが、距離が気になり行きませんでした。
   石積みの立派な駅舎。
右、左下:  上に見える橋は一段目の橋と同じ。改札口が無いので、道路から直接ホームに入れます。 荷物運搬用の台車が見える。

     
右写真: UPの貨物列車と行き違いました。 相対速度は220km/時程。 あっと言う間でした。先頭はDD35A、次がDD35

UPの目標は高速大量輸送。 蒸気機関車時代からビッグ・ボーイ等の大型機関車を使用してきました。

GEと、大出力で安価な重油を使用するガス・タービン・エンジンを搭載した機関車の共同開発を行い、
1948年からガス・タービン・エンジン搭載の機関車を使用。
最後のエンジンは何と 8500HP。エンジンはほぼ定速運転なので、停車が少なく、比較的勾配の少ない区間の高速大量運転には
適していましたが、重油の値段が上昇し、 大都市近郊での運転時の騒音問題等もあり、

UPは機関車製造会社に高出力のディーゼル機関車製造を打診。
GE, GMのEMD部門, Alco 3社が競作。 GEは廃車になったタービン車の下回りを再使用した 5000HPの U50 を、
Alco は GE と同じような下回り (B+B-B+B) で 5500HP のC855,   EMD は DD35 を製作。 

UPだけが全3社からの機関車を購入(U50 1963〜1965年 23両、C855 3両、 DD35 1963〜1964年 27両。 DD35A 1965年15両。
1台での大出力エンジンは無かったので、全て2台のエンジンを搭載している)。

この写真の DD35A は 2500HP のGP35を背中合わせにして、一体台枠上で結合、運転室を片側だけにしたもの。 4軸台車を前後に2個。
全長約27m。 機関車重量約 236トン。
2両目の DD35 は運転室無しのブースター・ユニットと呼ばれるもので、旧形式ディーゼル機関車では普遍的なもの。
3両目は何か判りませんが、3両で約1万2〜3000馬力。 1マイル・トレイン牽引ですが、トン/HP から言えば
DD51 が 1200 トン貨物列車を牽くのと大して差は無いと思います。

1両の機関車に2台動力用エンジンという形式は、この次の EMD/UP DDA40Xで終わっています。
1969年4月に営業運転開始ですから、12月ではまだ数が少なく見る機会はありませんでした。
X には試験的という意味合いもあり、 DD35Aより角が取れ、少々スマートな車体で、出力は 6600HP。 1両での出力は現在でも世界最大。


1970年12月

ボストンのハーバードか、ニュー・へィヴンのエール大学でのヴェトナム反戦デモを撮影する為に行った時の写真と思います。

     
左写真: 右写真と共に、場所はコネティカット州のニュー・ヘィヴン駅構内と思います。
バッド社製のディーゼル動車 RDC-1(レール・ディーゼル・カー)。 1949〜1962年 に約400両が製造された。
エンジンは 550HP。 全長約26m。 乗客90人。

右写真: 有名な旧ペンシルヴェニア鉄道の GG1 交流電気機関車。
1934〜1943年に試作車1両を含め140両製造、1980年代迄使用された。 
交流単相 11000V 25Hz。 変圧器のタップ制御で1軸2台交流モーターを駆動。 12モーターで連続定格 4620HP。
引張力 約8888kg/m。(EF58の3倍以上) 全長約 24m。 機関車重量 約216 トン。軸重 約23 トン。
2-C+C-2の鋳鋼製台車。 動輪直径の1448mmは蒸気機関車並。

GG1 の前の機関車は箱型だったが、踏切での運転士死亡事故があり、蒸気機関車並の保護を、と云う事で基本形体が決まった。
流線型で有名なレイモンド・ローウィ (自動車からトースター迄、彼のデザインは今迄の「形」に大きな変革を与えた。
ピース煙草も彼のデザイン。 余談だが私が暫く働いていた香水会社に、ローウィの事務所で働いていた日系2世のデザイナーがいました。
事務所を辞める時にローウィ氏から日本で寄贈された大量のSPレコードを貰ったとか) が2台目から製作に参加して、このデザインとなった。
当時としては画期的なもの。岩波写真文庫の「汽車」にも写真が掲載されており、9才程の私には夢の又夢だった。

RDC の前面に NH の縦書サインがあるが、これはニュ・ーヨーク ニュー・ヘィヴン・アンド・ハートフォード鉄道の略で、
ボストンとニュー・ヨーク、その近辺を結ぶ鉄道会社だった。 (ニュー・ヨーク〜ニュー・へィヴン間はかなり早くから電化されており、グランド・セントラル・ターミナルからブロンクス迄は直流第3軌条、ニュー・へィヴン迄は単相交流 11000V 25Hz)

しかし、1969年の1月にペン・セントラル鉄道に合併された。 右の写真の大きなロゴ・マークはPとCを組み合わせたもの。 
ペン・セントラル自体が1968年2月に、あの、世界の標準鉄道と迄言われたペンシルヴェニア鉄道(20世紀前半では輸送量、
収入共全米1位、又、ある期間、世界中で最も株の取引が多かった株式会社。
最盛期には1万6千kmの路線を所有。 比較的短期間に大規模な交流電化を行った)と競争会社
ニュー・ヨーク・セントラル鉄道 (トン/マイルではペンの3/4程) との合併によって出来たもの。

これで安泰かと思ったが・・・
1970年の6月にはペン・セントラルがアメリカ史上最大の倒産を引き起こし、このニュースは私にもショックだった。
PC運輸会社 は、僅かに残されていた旅客列車の殆どの廃止を要求、政府は全米の鉄道会社の旅客列車を運行するアムトラックを創設、
辛うじて旅客列車が生き残った。
ペン・セントラルは裁判所の管理の下、貨物列車を運行したが、1976年に政府が東部で倒産していた5社を併せ、コンレールを創設。


         
ニュー・へィヴンの出札口に行ってみると、次の列車がターボ・トレインである事が判った。
定員制自由席で通常列車の2割増の料金だが、空席があったので無理して購入。 日本人でこの列車に乗った方はそんなに多くないと思います。

田町電車区で「こだま」の入換運転時に運転台に載せて貰った事がありますが、架線が直ぐ上に(というより眼の前に)見え、
威圧感があり、横から見下ろすと、こんなに高いの、という感じでした。
構内運転でしたから、揺れもかなりあり(高いので余計)、とにかく窮屈という記憶が残っていますが、
(1/3 室の運転室より当然広いのですが、天井高さの印象が強いのでしょう。

ターボ・トレインの場合、架線高が高く、車幅も広いので、圧迫感はありません。 小さめの旅客機の内部位の感じでしょうか。
日本のパノラマカーの客室を運転室の後に持ち上げた感じ、と言った方が判り易いかもしれません。
この部分は正式にはドームと呼ばれる形式で、ドーム・カーというと全車2階建、ガラス部が多いという印象がありますが、
一部 2階でも、その部分はドームです。
この車両の場合、車長の約半分の長さがドーム部で、ドームの下、前半分から頭部迄が機関室。出入り口は車体中央(これも航空機的)。
乗り心地は路面状況が悪いせいか(レールも交互の継ぎ目)、スムースとは言えない記憶が残っています。

ボンネット部(?)はかなり長く、戦時中の戦闘機の設計側と搭乗員との遣り取りが思い浮かびます。
上層部と設計側は大出力エンジンを搭載したい、搭乗員は前方の視野が大事(後期の飛行機を除き、後尾輪での3点支持でしたから、
草地のような滑走路での離着陸時の見通しの違いは大きいと思います。
アメリカ軍は重機を直ぐに搬入、場合によっては鉄板を敷き詰めていました)。
アメリカはレーダーの開発が日本より進んでいたので、この方向から日本機がやってくる、と大体の方角を知らせ、高度を取って待てば良いと言う事がかなりあったようですが、日本機の場合、索敵は重要。でかいエンジンでは前方、特に下方面が見えないと言う文句がかなり出たようです。
アメリカ軍の飛行機は空冷式エンジンの場合、大きく艦載機では不恰好ですが、防御と速度で日本を大幅に上回っていました。

踏切事故等も考慮して、と云う事でしょう。 何せ、ぶつかる相手も日本より大きいのですから。
運転席が前にある分だけボンネットは見えないので、客室に座っている限りでは気になりませんでした。
一番前でしゃがんで、とも考えましたが、当時では未だ東洋人に対する周囲の目が厳しかったような気もしたので・・・

北米では、日本の新幹線の成功に刺激され、1965年に旅客列車の高速化を目的とした米国高速地上運輸法が成立。
カナダでもカナダ国有鉄道のモントリオール〜トロント間に対するアップグレードの要求が出ていた。
これ以前に 米 C&O 鉄道は低床タルゴ方式列車 Train X を試作していたが、採算の面で試用だけに終わっていた。

法成立によって需要が増えると見た航空機会社ユナイテッド・エアークラフト社 (UAC) はTrain Xプロジェクトの特許を買収、
設計者を招き設計を開始。 Train X のディーゼル・エンジンの代わりに小型軽量なジェット・エンジンを採用、ターボ・トレインの誕生となった。
2編成の車体がプルマン・スタンダードによって製造され、1967年に試験走行開始。 1967年2月20日に約275km/時のガス・タービン
動力による鉄道車両の世界速度記録を樹立した。 この記録はアメリカ国内営業用車による最高速度として現在でも破られていない。

1969年4月8日に当時のペン・セントラル鉄道でニュー・ヨーク〜ボストン間の営業運転を開始。営業最高速度は100マイル/時(約160km/時)。

前後の動力車の間に付随車を挟んだ3両連接列車で、動力車の全長は約22m。列車長約61m。 車幅約 3.13m。
展望室での高さは約 3.9m。付随車で約 3.3m。 運転整備重量105トン/列車。
設計時に風洞試験されたアルミ溶接車体で、窓ガラス面は旅客機と同じく車体表面とツラにする等、航空機製作技術が各所に採用されている。
座席も旅客機式シートが中間車と展望室の下で計96。
展望室に固定式のシート24席づつ。中間車にはスナック・バーを設置。 トイレは薬品循環式。

エンジンはプラット・アンド・ホイットニー・カナダ製のST6Bジェット・エンジンを 400HP に落したものを編成で6基使用。
1基は編成用電源アルタネーター用で、動力用は5基。
映画「スター・トレック」の宇宙船のようなV字型アーム(この場合回転軸ケース)の上にクラッチが取り付けられたエンジンをギヤ・ボックスを介し
背中合わせにして搭載。これだと推進用4基となるが、前方の1基分はエンジンではなく、アルタネーターが取り付けられていて計3基。
図面を見るとこうなっているが、残りの2基については記述が見つからないので、残り台車のVの後方に1基づつで計5基と思われる。

V の根元はギヤ・ボックス。 ギア・ボックスには前後方向にシャフトが走り、アームから来る2本の回転軸とシャフト後に取り付けられた第3軌条用の150 Kw モーター軸とを組み合わせる。 シャフトの前はカルダン・ドライヴ用の軸で2軸を推進する。
動力台車はバッド社のパイオニアIII型を思い起こさせる内台枠で、電空制御の踏面ブレーキと航空機用と同じディスク・ブレーキを採用。
連接部は操舵式1軸台車で振り子式。第三軌条区間ではタービンを停止し、モーターで約80km/時の走行が可能。

カナダは当初から動力用ジェット・エンジン4基 1600HP の7両編成で運用
アメリカでは最高運転速度を 160マイル/時を想定していたが、カナダは 125。

乗車率は高く運用も上下2本になったが、台車の空気ばね、ギア等の初期故障が続き、安定した運行が暫くできなかった。
マンハッタンへの通勤途中で、パラパラめくりの発着案内掲示を見ていたが、度々、在来車への変更通知を見かけた。
 又、乗車定員が少ない為、効率が悪く、防音対策を強化した上で2両増結、5両編成となった。

 しかし、最大の問題は、車上信号機未設置のニュー・ヨーク〜ニュー・へィヴン間では 79マイル(126km)/時、
車上信号機整備のニュー・へィヴン〜ボストン間は軌道の状態、踏切の存在等で、一部の 100マイル(160km)/時区間を除き
90マイル(144km)/時に抑えられていた為、在来列車からの大幅の運転時間短縮にはならなかった。
他の区間での運転も考えた場合、同じ問題があり、頭打ちに。

列車整備はUAで行われていたが、少数編成でのコストは高く、これ以上の増備もなくなった事からUACは鉄道車両製造から手をひく。
1976年に使用廃止。 軌道状態が良く、最低100マイル/時での運転が出来ていれば、という事ですが、
政府援助を受けても列車を走らせる事で精一杯のアムトラックでは時期早尚だったとも言えます。


ターボ・トレインの項 アメリカ Kalmbach 社 「Trains」 1970年3月号を参考。