YMCA
アパート群から 50mも上ると、右側に一寸した町にはまずあるYMCA。 アメリカを貧乏旅行した人にはお馴染み。
ここのYも 55室の男性用SRO( single room occupancy、一人部屋)があり泊まれますが、電話予約が必要。 観光地ではない街のYは、どちらかというと、仕事などで長く滞在する人達の為に付属しているといえます。 (
地方のYでは宿泊サービス廃止が増えています。 ここのYも今は宿泊はできないと思います)
Yと言えば、まずそのスポーツ設備。 ジムやプールがあり会員は何時でも利用できます。 ここのYには25m温水プール、ジム(バスケット・コート)、ラケット、ハンドボールのコート二面、フィットネス・センター、重量挙げ等の設備があります。
幼児から、お年寄りまで年齢毎に様々なプログラムが組まれ、会費が安く安全という事で、スポーツ施設利用の為に会員になっている人も多いようです(年会費は大人1人 372ドル)。
私の息子も昔、何年かスイミング・クラブの世話になり、ライフ・ガードの資格が取れる寸前迄いきました。 資格試験を受けるには年齢制限があり、(責任がありますし、人工蘇生法等習わなければなりません)その内に勉強が忙しくなって、そのままになったのは残念です。
サマー・キャンプ等で習った姉とは違い、本格的な練習を叩き込まれた息子の泳ぎを見ていると、そのフォームの奇麗さに感心します。 足から泡も立たせず、ゆっくりと泳いでいるように見えるのですが、実に速い。理論で基本からキチッと教えるアメリカ流の成果でしょうか。
YMCAといえば多少の思い出があります。 私がアメリカで最初に泊まったのはサン・フランシスコのY。 知人が予約を入れておいてくれたのですが、12月のシーズン・オフでガラガラ。 ここでは二泊したようです。
YMCAがあるのは、まず街の中心部。 その頃の大都市の中心街は環境が悪く、夜歩くと街灯があっても点いていなかったり、無人の真っ暗な建物が所々にありました。 建物といっても今思えばブラウン・ストーンのビル。
ブラウン・ストーンの事はマンハッタンに話が移った時にでも書きますが、ビルの入り口に十段ほどの石段があり、石の手摺と、それを支える大きな石の柱が歩道に面してあります。
その石柱に人が寄りかかっていたりするのです。 ただ立っているだけですから人気というものを感じさせません。黒っぽい服装の黒人だったりすると、前を通り過ぎる迄気付かず、ギョッとした事が何回かあります。 危険は感じませんでしたが、人がいないと思った影に誰かいると本当に飛び上がります。
という事以外では、サン・フランシスコのYMCA自体の印象は悪いものではありませんでした。 部屋は小さくてもきれいなシーツを敷いたベッドと机があり、ホッとしたものです。
机の上、又はドレッサーの中には必ず聖書が置いてあります。 これはYMCA( Young Men's Christian Association )だからという訳ではなく、昔は殆ど何処のホテル、モテルにも置いてありました。
田舎の小さなモテル等では今でも見つける事ができます。 信教の自由を侵害すると言う事で最近は置かなくなったのでしょう。
学校の授業の前に必ずしていた神に対するお祈りが、各人の自由になったのと同じような事です。 もっとも学校の方は最高裁の判決によるものですが。 とにかく無神論主義の私には、宗教からくる風習というものが何故かピンときません。
日本の当時のホテル等と違っていたのは、ドアの内側に、大きな表示があった事です。 部屋の定員、非常時の事、鍵、荷物の事、等々。 寝タバコ厳禁と大きくあったのを今でも憶えています。
鍵と言えばこちらのホテルの鍵には部屋と郵便の私書箱番号が彫ってあり、間違えて持ち帰ったり拾ったりした場合は、郵便ポストにそのまま投げ込むと配達してくれると聞きました。
YMCAの鍵にも、その事が彫ってあったような気がします。 もっとも最近のホテルはカード式になってきてますから、味気ないですね。
そういえば、昔のスリは、現金を抜いた後の財布をポストに投げ込むと言われていました。 中の身分証明所等から、郵便局が配達くれるという寸法。
最近はクレジット・カードをすぐさま怪しい店に持ち込んでキャッシュ化したり、小切手に偽のサインをして買い物をしたりする犯罪も多発しているます。
最近TVで、半年以上もその人になりすまし、あちこちの銀行に新しいクレジット・カードを発行させては悪用しているグループがいる、というニュースがありました。
スルのと悪用するのは分業。 スリの仁義も無くなったものです。 スリの仁義といえば、辻強盗の仁義も無くなったようです。
私が来た頃は、金を盗る事だけが目的。金目の物さえ黙って渡していれば、それで済んでいました。 その後、薬のせいか、いきなり後部から頭を殴るとか、刺す、撃つというのが増えてきました。
顔を見られたくないという事は勿論あるでしょうが、それよりも面倒臭くないと言う事のようです。
マンハッタンでもYMCAには世話になりました。 ワシントンからグレイ・ハウンドのバスでニュー・ヨーク入り。 頼みは1968年に川喜多 和子さんがニュー・ヨークに仕事で行った際のお土産。 せびってお願いしておいた詳細なニュー・ヨーク五区の地図帳。 全ての通りと地下鉄の路線が出ていました。 1.ドル360円の当時では結構高いものだったと記憶しています。 この地図つい最近迄使っていました。
丁度その頃日本では映画「ミッド・ナイト・カウボーイ」が封切りされていました。 私がこの映画を最初に見たのは、皮肉にもマンハッタンの場末の映画館。 その映画の中に出て来るような劇場でした。 そしてこの映画の中に主人公がグレイハウンド・バスでニューヨークに向かうシーンがあります。
工場の切れ目に、ニュー・ヨーク湾の反対側に見え隠れしていたマンハッタンの南端が・・・・
更に北に走るにつれ、エンパイア・ステート・ビルの上部しか見えなくなってしまいます。 突然ハイウエーが90度右に折れ、エンパイア・ステート・ビルの偉容が真っ正面に見えた時には、胸にグーンとこみあげて来るものがありました。 なんせ三日半もバスに乗り詰めで大陸を横断したのですから。
この辺り、ニュージャージー州側ではハドソン河の岸が盛り上がっており、手前側にはその当時ビルも余り無く、岡の向こうに摩天楼のほんの上層部だけが見え隠れしていたのです。 映画で何回も見た憧れのマンハッタンの町並み、その一部が目の前に広がったのです。
岡が近くなるにつれ、又その影に隠れてしまいますが、ワクワクする気持ちは高まるばかり、気の早い連中はもう身の回りの物を整理し始めました。
暫く走ると、右下にリンカーン・トンネルの料金徴収所とアート・デコーの照明灯群が見えて来ます。 小学生の時に何度も読み返したアメリカ紹介本の写真と同じ。これ又、単純に感激。 右に九十度曲がると突然左側にハドソン河とマンハッタンがサッと広がりますが、それも束の間、坂を右に右にと降りて行くと、先の料金徴収所、もうトンネルの大きな入り口です。
写真左:2006年 位置は違うが、同じ高速道路の上から。右方向(南)に行くと、リンカーン・トンネルとワシントン方面へのインターチェンジとなる。1969年には建物が殆どなかった。 右2枚:2010年 中央写真、広い道はローカル。 正面、照明塔左後、ビルボードの奥に高速の橋が見える。右手からぐるっと「の」の字型に180度方向転換し、料金収容所を通り、右写真のリンカーン・トンネルに入っていく。
トンネルを出ると直ぐにバス・ターミナル。 「ティファニーで朝食を」そのままのシーン。 バスも、車体の途中から床が高くなっている段付きのバスで、これ又同じでした。 全てが同じで嬉しくなってしまいます。
通路からエスカレーターで上に出ると案内所と発券所のある長い大きなホール。
東も西も判らず、横の出入り口脇で地図を見ていると、何となく風采のあがらない、黒尽くめの中年男が近寄ってきました。
「何処に行くんだい?」 「YMCA」 「ふん。 私に付いて来なさい」 と出入り口とは逆の方に歩いて行きます。
いろいろな話を聞いていましたので、要注意。 しかし真っ昼間ですから、何事も無いだろうと付いて行った所は公衆電話。
電話帳を繰っては独り言を言っています。 何処か安いホテルでも紹介するのかな、と思っていると「ここが一番近いだろう。 分かり易いし」
と私の地図を取り上げ、抗議する間も与えずにペンで何やら書き込んでしまいました。
「私に付いて来なさい」ホールを長手に突っ切ると、木枠の大きなガラス扉がずらっと並んだ正面玄関。 歩道に出ると、右手を指し
「ここがエイス・アヴェニューだから、ここをまっすぐにサーティ・フォース・ストリート迄行って、右に曲がるとスローン・ハウスと書いてあるのが見える。 YMCAだ。注意して行くんだよ」
「サンキュー。 サンキュー・ヴェリマッチ」 と言いながら改めて見直して見れば、黒の詰め襟のシャツ。 神父さんでしょうか。 この人は本物だったようです。 両手両肩に荷物、一目で旅行者ですから心配したのでしょう。
スローン・ハウスの前に来てみれば、レンガ建ての大きなビル。 不思議な事に予約無しなのにカウンターで直ぐ部屋が取れました(YMCAは予約必須でした)。 何の質問もありません。 矢張り荷物のせいでしょうか。
エレベーターの方に行こうとするとガードが立っています。 「ショウ・ミー・ユア・キー」
一応安全策は講じているようです。 自分の部屋に行くとまず荷物整理。 着替えとか身の回り品だけ出すと、後は又カバンに詰め、カウンターで聞いたコイン・ロッカーへ直行です。
無け無しの金、一日25セントでも勿体無いのですが、背に腹はかえられません。 盗難の話はかなり聞いていますし、今や私の全財産となったカメラ三台盗まれてしまったら、もうアウトです。
外に出れば、エンパイア・ステート・ビルは目の前。 ぐるっと近所を回ってみましたが、方向感覚の強い筈の私なのに、もう一つピンときません。 同じ高さの似たり寄ったりの建物、見渡す限り英語だけ。 感覚的に自分と外界に距離をおいて物を見る事が出来なかったせいでしょうか。
取り敢えず、エンパイアを目印に相当の距離を歩いてみましたが、東西南北の感覚がはっきりするのに二,三日かかりました。
札幌のように街路は碁盤の目ですが、ビルディング一軒づつにナンバーを付けるというアメリカのシステムは中々頭に入りませんでした。
最初の晩、早速Yのカフェテリアに行ってみました。様々な人種が集まっています。 挽肉の塊とでもいうようなハンバーガーにくらいついていますと、金髪のすらっとした若い女性が、コーヒー・カップを手にしてやって来ました。 混んでもいないのに、前の椅子に座っていいか、と聞くのです。 細おもての美人ですが雰囲気に少々品がありません。
クリスマス寸前で、外は鼻毛がパリパリとしてくる程寒くても、中は暖房ガンガン。 ノー・スリーブの剥き出しの腕には小さな蝶のようなイレズミ。 顔とのズレに一瞬あれっと思いました。
何となく当時まだ流行っていたヒッピーの成り損ないというイメージ。 顔の皮膚も少々化粧荒れ気味。 何であろうと大歓迎。
早速自分の名前はスターだとか言ってきました。 勿論本名ではないでしょう (もっともスターという名前の人に、その後何人か会いましたので、実在名です。親が付けた名前かどうか迄は知りませんが)。
どうしょうもない英語で会話を続ける事二,三分。 話にならないと諦めたのか、他のテーブルに行ってしまいました。
その後二,三回通っている内に、地方から来て仕事を探している若い黒人の大工さんとか、日本人の学生達とも知り合いました。 こういう所の会話はどうも嘘が多いようで、話半分以下で聞かないと駄目という事も後程分かってきました。
自称学生という日本人によれば、どうやらあの女の子は娼婦。 そう言えば毎晩あちらこちらのテーブルをフラフラしています。
「ここはYMCAじゃないですか。そんな事!」と抗議すると、「いや、ここのYは女の子も泊まれるし、カップルも泊まれるんだ。上の階に別々に入れてるんだよ。」との事。
エレベーターの中に職員が立っている訳ではないので、鍵を見せてガードの前を通りさえすれば、後はどの階で降りようと勝手(女子のフロアにはガードがいると聞きました)。
男はYMCA、女はYWCAが常識と思っていましたから、これにはあっけらかーん。このYだけの事だったとは思いますが。
当時スローン・ハウスには日本人学生が四人程滞在していたと記憶しています。
ある晩、一人の部屋に集まって情報交換。 全員が親の金で私費留学に来たのだとか。 これも眉唾もの。 どう見ても英語が達者とは思えませんし、勉強が好きという感じにも見えません。
金持ちの親が、日本のまともな大学に受かりそうもない息子に箔を付けようと、金を渡してアメリカに送り出したという感じ。
あそこを受けるんだ、ここを試してみるんだと言っていた彼等、その後どうしたでしょうね。
トーフル位はパスして本科はともかく、英語の予備コース位は出たんでしょうね。
外国人には英語のテストがあり、不十分と見なされると、英語のコースに入れられ、みっちり英語を習わせられます。
日本では当時アメリカの何処そこの大学に私費留学をしました、というのが結構いたようですが、多くがこの類の輩。 何を勉強していたのやら、というのが私の率直な感想です。
英語コースを出た位でハッタリをかませるな、ですか。 もっとも英語コースに入れても、出れない人もかなりいたようです。
英語のコースであれ、外国人用の英語学校であれ、移民局に認定されていれば、学生ビザが出ましたから、それで長期滞在はOK。
そういえば移民局の役人や家族が経営しているという専門学校も幾つかあったようです。 そんな所は出欠の調査もいい加減。 学生ビザがあれば、週何時間かの労働も正式に認められていました。
とにかく何であれ、彼等は故郷に錦を飾らなければならなかったのです。
その他、話題に出たのは、如何に節約をするかという事でした。 彼等が近所の小さなスーパー・マーケットのありかを教えてくれました。
カフェテリアは安いのですが美味くはない。 デリで安くて巨大なサンドイッチを買うのも飽きしたし、食事が偏ってしまいます。
幸い寒い冬の事、他の部屋で見たのをまねて、窓を開け下枠の外側に残りの牛乳やハム、果物等を並べます。 これでかなり出費を切り詰める事が出来ました。
アメリカでは、氷の冷蔵庫も大して普及していなかった昔には、キッチンの窓に取り外し式の箱を据え付けていました。
古い家の窓は殆どが上下開閉式。下の窓を持ち上げ、その下に箱を挟む訳です。 窓枠設置型エア・コンと同じ要領。
外に面する板には小さな穴がいっぱい開けられていて、室内側にはトビラがついています。 この中に残り物や牛乳等を入れてました。昔のキッチンは、まず北に面していましたから、寒い冬にはこれで十分。ちょっとしたアイデアですね。
後は住む所。 グループの二人は近い内に他のYへ引っ越すとの事。 セントラル・パークのすぐ横で、環境も悪くなく、値段は少し高くはなるが、週料金もあるとか。
私は別に勉強に来た訳でもなく、閑静な場所の必要もありません。 一日五ドルだかの宿泊費でさえ痛いですし、部屋の掃除をしてくれる人へのチップとロッカー代もバカにはなりません。 しかし安全優先。
話によるともう一軒Yがあるとか。さっそく次の日に行ってみる事にしました。
とにかくここは居心地が悪い。 シャワーも早朝に入る事にしていました。 というのは最初の日にシャワーを浴びに行ってみると、大きな共同部屋に自分一人。
気を良くして浴びていると、男が覗き込み、私を見つけると大急ぎで服を脱ぎ始めたのです。 一寸困った事になったぞ、と思いましたが、公衆のシャワー、危険は無いだろうとタカをくくっていました。
すると、広い中わざわざ人の直ぐ横に来てシャワーを浴びだしたのです。 こちらを見ながら何か話し掛けていましたが、その目付き、只物ではない。 日本でもホモちゃんに襲われかかった事がありましたので、雰囲気で分ります。
あたふたと終わらせるや取る物も取り敢えず逃げ出しました。 トイレに行く時等ドアが開けっ放しの部屋が結構あり、他人の部屋は覗かないよう歩いていたのですが、この時たまたま中が見えてしまいました。 若い男がベットの上に真っ裸でこちら向きに寝そべっているではありませんか。 ふりチンで正にこれ見よがし。 あわてて通りすぎると、これ又ドアの開いている部屋では男二人がベットの上で抱き合っています。 気になり出して調べると、ドアの開いている部屋は空き部屋か、相手を求めているホモちゃんの部屋。
ニュー・ヨーク州には、殆ど死文化した1700年代の法律で、男同士が手を組んで公道を歩くと逮捕というのがありました。 私が来た当時この法律はまだ有効。 今と違い、ホモ・セクシャルであるという事を大っぴらに出来難かった頃ですから、ニューヨークで仲間を探すのにはYMCAが最適の場所の一つだったのでしょうね。
それ以来シャワーは朝の五時。 まずトイレに入って二,三分座りながらシャワーのある方に注意を向け、誰も来そうにもないのを確認してからシャワーを浴びました。
このスローン・ハウス、二,三年後には、もっと環境が悪くなり、新聞で売春と犯罪の巣と叩かれ、フロント・カウンターより奥に宿泊客以外は入れないとか、エレベーター内にガードを常駐させ、鍵に示された階でしか降ろさないとか、保安を相当強化してまともになったようです。
今でも車で前を時々通りますが、どうなったのでしょうね。 外装も少々綺麗になり、その後何の悪い話も聞きませんが、まだYの一環として営業しているのでしょうか。
さて他のYの話が出て二、三日後、電話帳で調べて、もう二軒のYに行ってみました。
セントラル・パーク横のYは、朝なのに、ロビーには日光が入らず(東側が公園)薄暗くて、人気もありません。 学生グループの二人が越して来ている筈なので、感想でも聞こうと、掲示板の張り紙等眺めていましたが、誰も出て来ず、陰気なので、そうそうに出ました。
もう一軒のYは、イースト・サイドのオフィス街の一寸外れ。 こちらの方面に来たのはこれが始めて。
猜疑心で見ていると、出入りしているのは殆どがビジネス・マン。 スローンとは大違い。
理由が判らずとも、とにかくカウンターで値段を聞いてみました。 七ドル位だったと記憶してます。 この間にも出入りするのは、背広、ネクタイをきちんとしている人ばかり。
コイン・ロッカーは入り口右手の地下。 行って確認してみましたが、人の出入りも多く安全そう。 早速近所の公衆電話から予約を入れました。
その朝の内に荷物をまとめ、残っている二人にサヨナラを言って、スローン・ハウスを出ました。
新しいYの名はグランド・セントラル・YMCA。
背広姿のビジネス・マン達は、汗を流しにジム来ているのだと直ぐに判りました。
空室もスローンと比べれば多く、ゴミゴミした雰囲気がありませんし、宿泊人もきちんとした人が多いようで、廊下ですれ違ってもネチャッとした目付きには出会いません。 日本にいる時に、アメリカの友人が話してくれたYMCAそのもの。
気付いて見ればビジネス・マン殿、アタシュ・ケースの代わりにジム・バッグを提げているんですね。 昼休み等にサッと来ては運動をし、シャワーを浴びて戻って行くのです。
シャワー室で話し掛けられても、本当に「ヤアどうだい? そうか、それはいい。」てな感じでサッパリ。 まだフィットネス・センター等というものがアメリカで流行するずっと前の話です。
有名大学の卒業者はハーバート・クラブ等に顔を出し、スーパー・リッチはニューヨーク・ヨット・クラブとかの会員になっていたもんです。
歩いて十数分もしない所にに有名大学のクラブ・ハウスがずらっと並んでいる通りがありますが、ここのYはそのような組織に入っていないか、フルにスポーツを楽しみたいビジネス・マンが殆どだったのでしょう。
ここにも日本の学生グループがいました。 こちらの方は、もう少し真剣。 環境が変わると人間も変わるとは正にこの事でしょう。
地下にサロンと言うよりはロビーのような場所があり、夜になると何となく集まっての話し合い。 こちらでの話はもっと真面目で具体的でした。
一人はハウス・ボーイの仕事を捜していて、こちらで知り合った日本人学生の返事を待っているとか。 その学生は、日本で知り合ったアメリカ人の家で、住み込みのハウス・ボーイをしているのですが、気に入られて夜間学校に行かせて貰っているし、永住権取得手続きの約束もされているらしいとの事。
この二,三年後、ファッション雑誌ハーパース・バザーにクリスマス・ギフトのアイデアの一つに日本人のハウス・ボーイというのがありました。 真面目でよく働き、文句も少ない日本人。 この仕事には最適だったようで、日本人のハウス・ボーイやメイドを雇うのが、金持ち階層で一時流行ったようです。
私は日本で紹介された人達を尋ねながら、仕事を捜してみる事にしました。 住所録は古いのか、殆どの人が引越しをしていて無駄でした。
ハウス・ボーイの人にも聞いてもらいました。 やがて最終的に所持金も尽き、ポケットに残ったのは七ドル足らず。 ここの一泊分しかありません。
タイムズ・スクエア当りで質屋も見かけてはいますが、どう見てもイヤな感じ。
自室で日本の友人に形見代わりにと貰い受け、常時胸にしまっていた黒鞘の懐剣を出し(当時の空港には、まだ金属探知器が設置されていませんでした)腹をくくる、ならぬ腹を切らにゃあならぬ時が来たのかなあ、と見やる事しばし。
とにかくもう一度、と日本人の学生に相談し、ハウス・ボーイをしている人に直接電話をかけてみる事にしました。
この学生さんの仕事を横取りするような事になってはと、今迄遠慮していたのです。 先に話をしておくから、暫く待って下さいとの事。 指定の時間にホールの中にある公衆電話ボックスに入り、腰掛けに座って、初めてその人と話す事になりました。
「ジャクソンズ・レジデンス」と若い弾んだ声。 戸惑ってしまいます。 私の状況を聞くと、
「自分がしているような仕事は今すぐにありませんが、体力に自信はありますか?」
「大丈夫です」
「では、心当たりをもう一度当ってみて、又後で電話します」との事。
はっきりした声での受け答え。アメリカ人にはいかにも好かれそうです。 待つ事しばし、公衆電話のベルが鳴りました(アメリカでは番号が判っていれば、公衆電話にもかけられます。 間違い番号でしょうか、道路で無人の公衆電話のベルが急に鳴り出してドキッとする事が時々あります)。
「お弁当屋さんで人を捜していますが、やってみますか。朝が早いし、大変にきつい仕事ですが」
「ありがとうございます。何でも構いません。 そんな事言ってられませんから。」
「明日からでも始められますか。」と言う訳で、この落ち着いて静かな中にも活気があり、好きになったYから出る事になりました。
軍人の社会的位置
YMCAの反対側、この通りで最初の店はハード・ウエア・ストア。 1894年のレンガ造りの建物の一階で、上はアパートのようです。
小さな店ですが、日曜大工に必要なものは、まず置いてありますし、芝生や花の肥料から、冬に道路に撒く塩迄売っており、プロも来ては、つけで買い物をしています。 急に小物が必要になった時には大変便利。
しかしホーム・デポ等の巨大店舗チェーン・ストアに押され、小さな町の小さなハード・ウエア・ストアの数は、どんどん減って来ています。 これに関しては後程。
その二軒程隣りにバーらしき店があります。 こちらのバーは日本と比べると目立たず、気が付かないで通り過ぎてしまうのもある位。
しかし、ここは普通のバーではありません。 正面入り口の壁の上には、Veterans Memorial Building のサイン。 その下には星条旗が掲げられています。
このようなバーらしき店、特にVFWとサインが掲げられたものは、まず何処の街でも見かけます。
これは、Veterans of Foreign Wars の略。 第二次大戦とか朝鮮動乱等の国外戦争に従軍した兵士の為にある集会所。 軍人クラブとでもいいましょうか。
メンバーズ・オンリーのサインが必ず入り口に付いています。 勿論私は入った事も無く、中がどうなっているのか知りません。
元海兵隊の小佐と話す機会があり、どういうものなのか聞いてみました。
「本当は酒の好きな連中が、日曜日でも飲めるように作ったんだよ。 会員制のクラブだから法律にひっかからないんだ」半分は冗談ですが、日曜日に公の場所で酒を出せない法律は、まだあちこちの州に残っています。
戦争に行って酒依存症になった者も多い筈、かなり的を得た答えでしょうか。
「何時でも開いてるから、飲みたい時に安い酒を飲みたいだけ飲んで酔っぱらえるんだよ」
成る程、成る程。それであちこちの町にあるんですか。 中はその辺のバーと同じ(という事は殺風景という意味です)。
別に普通の人が入って来ても文句は言わない筈との事。 アル中の問題が社会化され、ハード・リカーを飲む層が減って来て、名目よりは売り上げという事ですか。
しかし外国出征経験を持つ兵士の数も激減しており、場所の数も減る一方だとか。
戦後の日本では、軍隊というと嫌な顔をする人が多いようです。 しかしアメリカには自由を守る為に戦ってきたという誇りがあり、ベトナム戦争の最中は別として、一般的に軍人には好感を持っています。
政府も戦争に参加し、除隊した軍人には特に手厚い保護をしており、これらの人達はヴェテラン(ズ)と呼ばれています。
どの程度重要視しているかは、1988年にレーガン大統領が今までの局を省に昇格させた事からも判ります。 デパートメント・オブ・ヴェテランズ・アドミニストレーション、退役軍人事務省とでも訳しましょうか。
そもそもの成り立ちは軍人恩給から始まっています。 南北戦争後には、戦傷の為に体が不自由になった兵士の面倒を看る施設を全米各地に建設。
その後、病院から養老院迄の運営を始めました。 全米のあちらこちらにヴェテランズ・ホスピタルというのがあり、戦傷者はこれらの病院に限らず、一生無料で診て貰えます。
1944年に発効した G I ・ ビル・オブ・ライトでは失業保険、掛け金の安い団体生命保険、家や農耕地、商売を買う場合の安いローンが手に入ります。
この法律の訳を、兵士の権利法案とでもしておきましょう.。
(
G I の語源は、コンプトンの百科辞典によると、どうやら兵士が胸からぶらさげているドッグ・タグが亜鉛メッキされた鉄、即ちガルヴァナイズド・アイロンで作られているので、頭文字を取って G I。 兵士、又は元兵士の事を指します。 ドッグ・タグは軍隊でのナンバーが刻印された小さな金属板ですが、犬の鑑札に似ているので、こう呼ばれています。)
又、除隊後の就職訓練から、勉強したい人には大学の月謝も免除、又は援助が出ます。 就職の際も同等の資格を持った希望者がいる場合には、除隊者を優先するようです。
元々は戦争から帰ってきた除隊兵士達の救済援助処置として始められたもの。 国の方針で戦地に送られた訳ですから、それだけの面倒は見ようという訳。
除隊しても家、仕事が無ければ、どうにもなりません。
そればかりか、死後迄きちんと面倒を見ています。 戦死者は勿論の事、戦争参加者が亡くなった場合でも、政府から墓石が支給され、国立墓地に埋葬して貰えます。
ケネディ大統領はアーリントン墓地に埋葬されていますが、これは彼が第二次大戦中、海軍に従軍していたからです。
1966年に追加された法案では、冷戦時に戦場に送られなかった兵士にも権利がある事になりました。 もっとも平和時に入隊し除隊した場合、全ての恩恵に与れる訳ではありません。
これらの権利等は、徴兵制が廃止になっている現在、志願兵を集める為の材料にもなっています。 テレビやラジオ、雑誌等の広告を使っての志願者集め。
軍隊に入って世界を見よう、経験を積んで除隊後の仕事探しを有利にしよう、除隊後に勉強したければ奨学金が出る、という調子のものです。
今や軍隊もエレクトロニックスの時代ですし、兵器サポートの技術は何処にでも応用でき、高校卒業の兵士達には格好のトレーニング・グラウンドです。 これらは兵士だけでなく、将校にもあてはまります。
徴兵制の事を書き及びますと、まだ軍への登録制度は残っており、18歳になって選挙権の登録をする時に同時に行ないます。
大学の入学願書にも、登録してあるかどうかの確認欄があります。 しかし有事を想定した抽選制度は止めました。
これは365個のピンポン・ボール状の玉を一個ずつ取り出し、それに書かれた日付、即ち誕生日で召集される順番を決めるのです。
最近では、平時には兵力を下げておき、非常時に予備役を召集して処する方向に急速に変わっています。
朝鮮戦争初期の空軍がそうでしたし、湾岸戦争は、その結集。 昨日見たテレビのコマーシャルでは、現在の陸軍総兵力の53%が予備役又は州兵で構成されていると言ってました。
莫大な赤字を抱えるアメリカ、有事の時には予備役の再訓練の時間が必要となり、出動は遅れますが準備万端主義の国、これでよいのでしょう。
予備役になると年何回かの訓練に応じなければなりません。訓練や召集で人材を失う会社は、その人達が戻って来た時に、同じ職場に戻さなければならない義務があります。 これは1940年の法律。
召集は国に対する義務ですから、当然といえば当然。 これからはもっと少数精兵、精兵器主義とし、前線へ出る兵士の数を減らし、ひいては死傷者も減らそうという方向に動いています。 相手の血を見ない戦争です。
TVの歴史番組を見ていましたら、第二次大戦後の調査では、実際に銃を使い、前方に躍り出て敵を倒している兵士は部隊の何パーセント(20%位と記憶していますが)との事。
同じ兵士が何人もの敵を倒している訳です。 残りは音や光景に飲まれ、すくんでいたり、放心状態で戦況には何の役にも立たず、兵力が多くても単なる数合わせでしかない、という意見が取り入れられ、ベトナム戦争の頃から、突然現れる標的に、反射的に撃ち込むという訓練が始まったようです。
味方がいない方向で何かが動いたら、それは敵であり、先に射撃を始めなければ、こちらがやられてしまうという考え方です。
敵も人間、よりは生存競争だ、と言う事ですね。 その後の戦争ではこの訓練が功を奏し、殆どの兵士が射撃をするようになったとか。 これも人数の削減に一役かっているのでしょうか。
湾岸戦争のフィルムに敵の人影は殆ど出てきません。 建物やタンクにミサイルが命中。 それでお終い。 戦争は益々非人道的になってきているようです。
歴史的に言っても、軍とアメリカとは切り離し難いものなので、後々もっと書き及ぶ事になりますが、もう少し軍関係の事を書きましょう。
タレイタウンから北に一時間程ドライブするとウエスト・ポイントの町があります。 ウエスト・ポイントといえば陸軍士官学校。
大学進学時期になると、他の大学と同じ様に、各地の高校に進学カウンセラーを送り込みます。 ウエスト・ポイントとかアナポリス(海軍士官学校がある所、即ち陸軍士官学校、海軍士官学校の代名詞)に入るには、各高校で5番以内に入ってないと、まず受け付けませんし、受験生は学校とその地域の上院議員からの推薦状が必要です。
スポーツと勉学両方に秀でた生徒を採り、士官としてのリーダー・シップを叩き込むのです。 ですから卒業後は元より、在学中でも民間企業からの引きが大変。
国費をかけて勉強させ、小遣い迄出すのですから、卒業できても 5年間は軍に残らせる規則がありますが、将来の就職の為に士官学校に行く生徒は少なくないようです。
ついでにもう一つ。 ROTCという制度があります。
リザーブド・オフィサーズ・トレーニング・コープの略で、これに登録すると大学の月謝の一部を払ってくれます。
その代わり月に何日間、休みの時に何週間と決められた軍事訓練に行かなければなりません。 大学校内なのに軍服姿の若い人を時々見かけるのは、その為です。
ベトナム戦争中は学生間で大変に評判が悪く、応募者が急減したり、学生の抗議や大学の方針でキャンパスの窓口を閉鎖したり、と散々で、キャンパス内で見かける軍服姿に卵やトマトを投げつけるなんて事もザラにありました。
最近は何か起きても、戦傷者が圧倒的に少ないですし、世界の平和を守るという大義名分が通ってますから、人気は回復したようです。 但し、これには、もう少し微妙な感情が含まれていますが、又、後程説明する機会があるでしょう。
メイン・ストリート
VFWの手前の店はレストラン、と呼ぶには少々お粗末な造りですが、ポルトガル料理を出している店。
次の店にはタバーンのサインが。 これはもうバー。
その隣りは中華のテイク・アウト、何処でも見かけるビデオ・レンタルの店、クリーニング屋、タイ料理レストラン、ピザ屋、ポルトガルからの移民が経営するグロッサリー・ストアと続いています。 (
2013年 あくまでも当時の話です)
タイ料理は暫く前の流行。 マンハッタンでの民族料理の流行り廃れは目まぐるしく、日本料理もスシやロッキー・青木氏が始めたベニハナ流のステーキが日本料理の代名詞となり騒がれた頃があります。
今や日本料理も定着してますが、それでもいまだにスシとテンプラが代表的。
驚く事は、どんな田舎に行っても或程度の人が住んでいれば、マクドナルドは無くとも、中華料理店が必ずという程あるのです。 中国系の移民はそれ程に分散しています。
大学のある街には必ず中華とピザ・ショップの配達サービスがあります。量が多くて安く、待たずに済むからです.。
大体、何処のエスニック・レストラントでもアメリカ人を相手にしている所は、甘すぎたり、塩が効きすぎていたり。 中華料理でも化学調味料を大量に使う所が多く、アレルギー症状が出る客が続出、MSG (モノ・グルタメート、即ち化学調味料)を使っていないと店頭に張り紙をする店が出る始末。 これは日本より早かったですね。 日本では未だ化学調味料が頭脳の働きを良くすると言われていた頃ですから。
イタリア料理でも、イタリアから来た人に言わせれば、不味くて食べれないというのが多いようです。
もっともイタリア料理といっても、イタリアからの移民の多くは貧乏な南部地域からの人達、アメリカではイタリア料理というと殆どがトマト・ソースを使った南部のもの。 私なんぞ、トマト味にはもう食傷気味。
極端になるとアメリカで考案された料理が、ある国の料理として有名になったりします。 中華でいうとチョプスイ、これは相当昔に作られたもので、誰も本当の中華料理と信じて疑いません。
カリフォルニア・ロールとかベニハナ・スタイルの鉄板ステーキもそうです。 カリフォルニア・ロールはアボガドを入れた海苔巻き。 ベニハナ・ステーキはシェフが客の前で包丁を振るってのショー。 日本的なところは何処にもありません。
グロッサリー・ストアでは魚も売っています。もっともヒレを切ったりするのは全てハサミ、ブツ切りですね。
タレイタウンには、白人ではイタリアとポルトガルからの移民が結構多く、最近の流行とは別に魚を食べる人が昔から多いのです。 タコでも食べます。
前に住んでいた家の大家さんもポルトガルからの移民で大工さん。 金を貯めて物価の安い本国に家を建ててしまい、引退したら本国で隠居するんだと言っていましたが、子供たちは完全にアメリア・ナイズされ、孫も何人かいます。 とっくに仕事はやめたのですが、何時帰る事ができるのか。
アメリカのドルがもっと強かった頃は、引退後、物価の安い国に移住したり、帰国したりして、国民年金と会社の年金で余生を過ごすという人も案外多かったようですが、最近はどうなんでしょう。 年金制度も変わりつつありますし。
この辺りの建物は全てレンガの二,三階建て。 トロリーが走っていた頃は、上の階はオフイスに使われていたらしく、元小佐も、父親がグロッサリー・ストアのある建物の上に事務所を持っていたと、言っていました。
YMCAの隣り1897年のビルは今でもオフイス・ビルとして使われていますが、昔の面影今いづこ、でしょうか。
さて、YMCA側に戻って、次の交差点の角にあるのは、もう一つの消防署、大きな街でもないのに消防署は全部で五つあります。
何人が常駐しているのか知りませんが、殆どの消防夫はボランティア。
350人程登録しているようで、日本でいう消防団と消防団員という事でしょう。 そう言えば日本とは違い、消防署との関係はありませんが、救急車もボランティア組織になっています。
署の後部の屋根に鉄塔が突き出ています。 火の見やぐらではなく、火事の通報が入ると装着されているサイレンを鳴らします。
大変に大きな音で、他の消防署でも鳴らしますので、村のどこにいても聞こえるます。
署によって音を変えてあり、どの署かも分かるようになっています。 大きな火事の場合は、暫くしてから隣の村のサイレンも聞こえてきます。 これは増援要請サイレン。
ここの署が村では一番大きく、現役の消防車が2台配置され、それ以外に磨き上げられた真鍮製の球形ポンプがボンネットの前に付いている旧式が1台あります。 もうこれは消防車としてはアンテイック。 年に一度、郡の消防パレードが持ち回りで開かれるのですが、郡内の消防車が集まった中、その先頭をきって走っていたりします。
二,三十台の消防車が縦列になって走るのは壮観です。 もっとも消防車は赤色というのは、日本人の先入観。 青や緑、黄、白等の塗装も見受けます。別に特殊な役割の車という事ではなく、その署で勝手に決めてるように思えます。
そう言えば私が日本に居た頃は、消防車と同じ赤色を車に使ってはいけないという規則があったようですが、アメリカでは関係ないようです。
タレイタウンの他の署は消防車1台づつ。 各車毎にチームになり、リバーサイド・ホース、コンクァラー・フック・アンド・ラダーとか、それぞれ名前を付けており、互いのライバル意識が強いのか、どこの消防車もピカピカに磨き上げられています。
サイレンが鳴り始めると、何十秒も経たない内にシャッターが上がり、消防自動車が飛び出します。
よく見ると乗っているのは、二,三人の時もあり、最初に出っ喰わした時には、これで消火が出来るのだろうかと自分の目を疑いました。
実はサイレンの鳴らし方に秘密があるのです。 その町々で配られるローカルの電話帳等に印刷されていますが、例えば、1秒程の音が4回続き、1秒休み、又1回鳴り、1秒休み、最後に5回鳴ると、これは私が住んでいる通りの何処かで火事。
重要なビルの場合には、その建物だけの鳴らし方があります。
これが3回繰り返されるので確認ができます。 昔の日本の半鐘もその鳴らし方で方角や火事の大きさを知らせていたようですから同じ様な考え方。
さて消防自動車がサイレンの音も高く走り出しますと、あちらの店、こちらのビルから、おっとり刀で飛び出して来る人達がいます。
野次馬かと見ていると、我先に走って消防車に飛びつく足には規定の長靴。 これがボランティア・ファイヤー・ファイターの面々。
手摺につかまりながらゴム曳きの消防服を羽織ります。
これでも人数は足りません。 他のメンバーはサイレンを聞くと、各々の家や仕事先から自分達の車で火事現場に直行するのです。
ですから火事になると、現場にはあちらこちらからブルーのランプをチカチカさせた自家用車が集まって来ます。
その中に必ず見られるのがファイヤー・チーフの車。 消防組織のボスです。
出動回数の割には、何軒も焼け落ちるような大火事はあまり無いようで、頭が下がります。
何処かの街で殉職者が出た時には、消防署のドアの上に紫と黒の横長の垂れ幕が暫くの間下がり、国旗も半旗。 この時は全米の消防組織で喪に服すようです。
警察官の殉死も同じ。 葬儀には、全米あちこちからの警官代表が集まり、その街全ての警察署の入り口に垂れ幕。 そして警察官全員が黒いバンドを胸のバッジ (こちらでは、これをシールドと呼びます。大体は町の象徴の模様の下にナンバーが刻印されており、この番号を調べれば所有者が誰か判ります。兵士が首から下げているドッグ・タグと同じ役割) につけて参列します。
州や町庁舎の旗も暫くは半旗。 大ニュー・ヨーク市でも同じ事。
警官、消防夫の子供達には、現役、退職者等で作られている組織から奨学金が出ます。 これらのお金は殆ど組合の積立金や組織に寄せられる寄付金から。
アメリカに住んでいると、必ず警察、消防、又は救急の関係先から寄付金願いの手紙を受け取ります。
マンハッタンに居た時に、職業別の電話帳に番号が載っていたせいか、警察の親睦組織から、しつこく電話勧誘があり、断りきれずに一年限りですよ、と一番安い寄付をしたのですが、次の年は戸口に現れ、又、払わせられてしまいました。
泣き落しと、半分は強制。 警察活動とは直接関係ない筈ですが、制服で来られては断るのに苦労します。 その後、マスコミで金の集め方と使い方について問題にされ、自粛したようです。 記事によると、殉職者の遺族、遺児の援助や、警察と民間の親睦会等以外に、政治的な事にも使われていたようです。
消防署の先を渡った所には最近まで古くからのトロフィー屋さんがありました。
アメリカにはタイトル(称号)制度というものが建国以来なく、そのせいかメダルとかトロフイーを並べるのが好きなようです。 昔私が日本にいた頃は、競技会の入賞者にはリボンとか賞品。
こちらでは昔からトロフィーとかカップが多いのです。 もっとも俗にいうブルー・リボン賞というのは農牧業の品評会で優秀賞として出される大きな造花に付いているリボンの色から来ていますが。
数軒先にチェリー・ドアという名の店があります。 これは近辺の病院付属のリサイクル・ショップ。 不用になった物を寄付して貰い、その売り上げを病院の経費に回すというノン・プロフィットのボランティアによる組織。
高価な物はありませんが、実用品ですので、この村に来た当初は何回か覗いて買い物をしました。
このような店はこの村にもう一軒。州の援助での店ですが、扱っている物は着る物だけ。 収益は矢張りノン・プロフィット団体にいきます。
結構裕福な家庭が多いせいか、置いてあるものも、ブルークス・ブラザースの背広あり、サックス、ブルーミングデールのドレスあり、で結構拾い物をします。 10−20ドル位の値がついているのも多く見かけます。
似たような店は隣りのスリーピー・ホローにもありました。 これは救世軍が開いていたもので、ここも衣類だけ。
救世軍は持ち込みの寄付だけでなく、ショッピング・センター等に大きな赤い箱を設置し、不用になった服を入れておけば、車で定期的に取りに来るという活動もしています。
こちらの方は集め方が集め方なので、ひどい物も混ざっており、店の中は何となく臭いました。
どこの店でも客は様々。 特に衣類の方は金に不自由してない人でも利用しています。
育ち盛りの子供が二,三人もいたら、一シーズンしか着れないのに金をかけて真新しい服を買うのは無駄。 特にブレザーとか子供のドレス類は、年に何回も着ませんから、余程の祝い事でもなければ、勿体無いという事になります。
私達も子供の学校の演奏会用に何回か足を運びました。 用が済んだら痛んでないものは又綺麗に洗濯し、アイロンをかけ、ひきとって貰います。 大事に着れば、服をリースしている感覚で利用でき合理的です。
日本でも最近はリサイクル・ショップが、あちこちにあるようですが、一般的にいえばアメリカ人の方が倹約家。 古い家具、電気製品でも使える間は徹底して使っています。
チェリー・ドアの隣のリカー・ストアの横には村に3つある料金メーター制公共駐車場の入り口の一つがあります。
昼間は空きスペースが多いようで、買い物客用というより、近所の住人の夜間駐車場の感があります。
昔開発された町の中心地では、家と家の間が狭く、ガレージが付いていても一台用が殆ど。 何台もある場合は、どうしても路上駐車となります。
昔に建てられた家は大家族用で、部屋数が多い大きな建物が多く、子供が出て行った後をアパートに改造して貸している家が多いのです。
私が来た頃は、多分その傾向が始まり出した頃ですが、車の必要性は余り無く、駐車問題は深刻ではありませんでした。 老夫婦だけの家庭が減り、他からの若い家族の転入、しかも共稼ぎ、又その子供達の成長と、車の数が増える要素が増大していきました。
次はアンティック・ショップ。 昔はカメラ店でした。 レストラン、ラウンドロ・マット(コイン・ラウンドリー)と続きます。
反対側の通りは、花屋、バー・レストラン。 1810年建築の表示があるビルには小さなスーパー。
この 2軒の辺りは映画のロケに時々使われています。 昔で言えば乾物屋とか萬屋とかの雰囲気ですか。 当たり前だった店先が日本同様消滅しつつあるのです。
小さな北イタリー料理を出すレストランもあります。 ニョッキ等もメニューにのっていますが、北イタリー料理はマンハッタンでも珍しい存在。 イタリアから来た家族が始めた家庭的な店。 味もよく、こじんまりした内装。 外装もシンプルです。 安くはないようですが、貴重な存在。
他にはアンティック・ショップが 5軒。 珍しくなった文房具店、中華のテイク・アウト等があります。
先程からアンティック・ショップが何回も出てきますが、数えてみると、メイン・ストリート上 100m位の間に 12 軒もあるのです。私が来た頃は数軒。
この現象は、暫く前からこの地域をハドソン・ヴァレー・ヒストリカル・エリアとして観光開発をさせようとしている州や郡の方針から自然発生したと言えるでしょうか。
GMの工場がなくなり、特にロックフェラー家の敷地が一般公開になった事で、観光客が増えていますし、この傾向はどんどん強まりそうです。
川向こうのナイアックの街は、とりたてて何も無い、のんびりとした街だったのですが、20年程前から、ストーリート・フェア等の催しを始め、今や町中アンティック・ショップやブティック、瀟洒なレストランで溢れており、週末は結構な混雑をみせています。
アンティックといってもニュー・ ヨーク近郊で見かけるものは、せいぜい1930、40年代のもの。 流行になりそうな収集品は見つけられるとしても、掘り出し物は少ないでしょう。
私が来た頃、アーリイ・アメリカンの家具等今程高くはなかったのですが、一時のブームで値が釣り上がり、今や手一寸が出ない所まで行ってしまいました。
又、反対側に戻ってみましょう。 角は不動産屋。 昔は靴の修理屋さんでした。
3人程で靴や革バッグ等を直していましたが、持ち主が引退、店を閉めてしまいました。
2面がショー・ウインドーのような大きな窓。 高い椅子に座り、小さな金槌でトントンと靴底を叩いていたデニム・エプロン姿の職人、活気があり通りから目立ちました。
まだ小学校前だった息子は通りがかると、飽きずに眺めている事が多く、すぐ主人と友達になっていました。
一軒おいて次は、うなぎの寝床のように細くて奥行きの深いラウンドロ・マット。
昔は、奥の椅子におばさんが座っていて、機械の使い方が判らないと教えてくれたり、小銭への両替、買い物をしている間に乾燥した洗濯物を畳んでくれたりしていました。 勿論畳んで貰ったらチップです。
次はサンドウイッチ屋さん。 消えて行く店が多い中、不思議に潰れない店。 学生の利用が多いそうですが、早朝には老人達が店先に集まって立ち話。
この隣りの先からは細切れの狭い店、ミニ・ショップが並んでいます。 入れ替わりが激しく、始終変わっています。
そうそう、何でこんな村に来たのか不思議だったのですが、軍の志願者募集所もありました。 税金の無駄もいいとこ。
店のサイズが小さい事と、パーキング・スペースが殆ど無い、という事はアメリカの郊外では致命傷。
日本の商店街のような場所でも、店のすぐ側に駐車空間がないと余程商売を選ばなければすぐ潰れます。
自分の店の用事が1,2分で済む業種だとしても、隣近所が客の応対に時間がかかるような店であれば、客はもう待ってはいません。 駐車違反のチケット覚悟でのダブル・パークか、他に行ってしまうのです。
大きなショッピング・センターの駐車場が混雑し、端の方にパークして 50m歩くとしても、商店街で 50mは歩いてくれないのです。
角の店との間が路地の様になっており、奥にドアがあって、昔はタクシー会社のガレージになっていましたが、客が増え、車も増え、他に引越しました。
このタクシー会社の歴史は古く、昔々は乗合馬車を出していたそうです。
今や駅乗り入れのタクシー会社は3つもあるようですが、タクシーが増えたと同時に運転手の質も落ちました。 運転も乱暴になっているようです。 運転手の年齢層が低くなった事もあるでしょう。
タクシーが増えたのは、オフィス・ビルが幾つか出来た為。 マンハッタンからの訪問客は電車で来る人が多いですし、飛行場へ行き来する人も増えました。
流しのタクシーは無く、乗るには駅で捕まえるか、電話で呼び出します。 ですから郊外に出て電話番号が分らない場合、えらい目に合います。
大都市以外は何処でも乗合制度。 乗る区間で値段が決まっており、乗り込むとすぐにディスパッチャーに無線連絡して値段を確認。 その時他の客が近所にいれば、拾っていけ、という指示が出ます。
家の中でタクシーを待つ人も多いので待たされる事もしばしば。 又、自分の目的地が他の客より遠い場合は、順番に客を落としていくので、グルグル回られ、結構時間がかかったりします。
ケネディ空港迄は約1時間。 太平洋便ですと午前中のチェック・インですから、前の日に予約を入れておかないと断られる事もあります。
料金、通行料含めて約45ドル。 2時間使って採算合うのでしょうか。
この場所、今は文房具店の支店となりオフィス家具の展示販売しています。
この通り右側の最後の店はセブン・イレブン。
それ以前は、新聞や雑誌も含め、いろいろなものを売っていたファーマシーで、ビルが出来た1930年代からの店でした。
元小佐の奥さんが高校生の時ここでアルバイトをしていたそうで、高校生のアルバイトは昔も今も大して変わっていないようです。
ちょっとした家庭でも、子供の小遣い稼ぎや大学生活準備にアルバイトをさせるところは少なくありません。
親の丸抱えの多い日本とは大違い。 大学に入ったら殆どが家から出て寮に入らなければならないアメリカの学生生活、本当の独立、自立の始まりです。
ミュージック・ホール
道路を隔てて、元靴修理屋さんの前にあるのは、タレイタウン・ミュージック・ホール。
この村には他にユニオン・オペラ・ハウスという劇場もあったそうで、文化的にも御立派といえますが、そちらの方は遠の昔に取り壊されています。
名前だけですと西部劇にでも出てくる芝居小屋てな感じですが、立派なステージがある煉瓦作りの劇場。
通りに面し幾つかある突き出し屋根はメリー・ポピンズの映画にもピッタリな感じ。その部分はアパートにでもなっているのか、人の住んでいる気配。
真ん中の屋根の下には、1885年の浮き出し文字の煉瓦。 切符の窓口はドアを入った奥。
元々の入り口は横の通りに面していたそうで、そのせいかサイズの割に客席へのドア迄が長い通路です。
通路左右の空間を利用し、入り口の両側は店になっています。現在は両方とも又々アンティク・ショップ。
店の正面上部はシンプルなステンド・グラスですが、手入れが必要、と言うより、間口全てを修復したら立派な姿に戻るでしょう。
この劇場、私が最初にこの街を訪れた1970年代中頃には、1ドルで映画を見せていました。
TVと、その頃にはもう確立されたきた郊外のマルティプル・スクリーン・シアターに客を取られ、町なかの碌な駐車場も無い劇場はガラガラ。
そういえばドライヴ・イン・シアターもこの頃には殆ど姿を消しています。
こちらの方は客の入りが気候、天候に左右される、暗くなってからでしか上映できない(夏時間中は 8時半頃迄明るい)。
パーキング・メータのように並んだ柱からスピーカーを車内に入れますが、劇場の音と比べると遥かに劣る、という事等が理由のようです。
舗装の隙間から雑草が生え、道路に向かって背を向けている大きなスクリーンを見るのは空しいものです。
一度位は行ってみなければと思っていましたが、車が手に入った頃には、車中から映画を見てみたいという夢もはかなく消え去っていました。
ミュージック・ホールも、最後の頃はオーナー1人で切符売りから映写係り迄兼ね、頑張っていたようですが、とうとう力尽き投げ出してしまったのです。
こんな有様は、日本を含めどこの街でも起きていたようで、時代の変化についていけない産業の悲しさを思い知らされます。
私の記憶に残っている最初の映画は「ピノキオ」のようです(勿論本邦初公開の時)。
その頃の映画館は超満員で客席の後、左右はおろか、通路までぎっしりと客で埋まったものでした。
二階席の下、手摺の直ぐ後ろに割り込めたとしても前は見えず、親父の肩車で何回映画を見たことでしょうか。
席を取る為に1回の上映が終わるのを中で待つ、という事もしょっ中でした。
休憩時間中は席を立とうとする人、その席を狙う人で通路は大混雑、身動きもやっと、という有様。
はっきりと記憶に残っている映画「黄色いリボン」は、こんな中で見たような気がします。 両方共、北海道北見の封切り館でした。
映画の好きな私、この劇場で1度位は映画を見ておいたら、と今でも思います。
その後しばらく放置されていましたが、街にある小さな音楽教室の経営者であり、大学の音楽教授が、フレンズ・オブ・ミュージック・ホールというノン・プロフィット・コーポレーションを設立して買い取りました。
寄付金が集まらず、その間も建物の傷みはひどくなる一方。 この教授先生、閑をみては家族と共にワーゲンのマイクロ・バスで乗り付け、自分達で直せる個所に手を入れていました。 この建物が歴史的建築物に指定されたのは、この頃ではなかったかと思います。
新聞等の記事にもなり、やがて資金も集まったのか、かなりの補修もなされ、現在はコンサート等に使われています。
看板を見ていると、ジョーン・バエズやヨー・ヨー・マが来たり、ミュージカルあり、室内楽奏ありと、やっと本来の劇場の役割を取り戻したようです。
今日の看板にはミュージカル、オリヴァーの宣伝が。 暫く前にはウエスト・サイド・ストーリーやオズの魔法使いも出ていました。
音響効果は大変に良いらしく、あのカーネギー・ホールと比較されたとか。 ルーズベルトやウイルソン大統領もここで演説をした事があるそうです。
開業された当初一階客席は、舞踏会も開けるように床は平坦に作られ、その目的にも使われたようですが、暫くしてから改造され、スロープ付きの劇場専用になったとの事。
外から見ると建物は客席の空間以上に大変細長く、映画館とは違う舞台の奥行きの深さが想像できます。
私も何回か音楽教室のリサイタルを見に行きましたが、椅子や反響板が並べてあったりで、一番奥迄は確認できませんでした。
正面入り口のドアを入ると下りの傾斜になっており、天井から1基、縦長のシャンデリア。 正面に客席へのドアがあります。
ドアの上は馬蹄形に開いており、シルエット風の絵が描いてあるバルコニーの壁の一部が見えます。入り口、通路の付近は余り手も入っておらず、いかにも古臭く見えてしまいます。
舞台の両脇上部にある黒い長い板には、切り抜き細工が施されており、照明が消えると、後ろにある小さな電球に灯された18世紀の服装の人達の影絵が浮き上がります。これはバルコニーの絵と同じモティーフ。
1981年 1989年 切り絵
公演がある時には、アメリカの何処の劇場でもそうであるように、入り口の上に張り出した雨除けの下に並んだ裸電球が点り、暖かい光の中、冬にはファー・コートにオレンジ色の光が反射して、妙な例えですが、昔のブンセン・ランプの灯ったお祭りの屋台の光景を思い出します。
開演日 裏から見たミュージック・ホール
銀行
その次の建物で、角にあたるのは南独風建築のアパート。 日本流にいうと木造モルタル塗りでしょうか。
1927年の写真には写っていないので、30年代に建てられたのでしょう。
1階部分は大きな石を積み上げてありますが、2,3階部分では、白い漆喰の壁を囲む太い茶色の柱が目に飛び込んできます。と、最近迄は思っていましたら、これが大違い。
ミュージック・ホールの裏側から見上げると、普通の汚いレンガ造りのアパートメント・ビルが3棟つながっているのが判ります。
正面の石を積み上げた部分は、近所に似たようなビルがありますので、本物のようですが、黒い急傾斜の屋根、漆喰の外壁、茶色の枠組み、全て後から付けた物のようです。
確かによく見れば、屋根の上端は何処にもつながってません。 昔火事があったという事で、正面だけ3棟続けて改装したのでしょう。 全く最近迄騙されていました。
以前はホテルだったという話もあります。 この南ドイツ、オーストリア風のビルは、マンハッタン以外のニューヨーク市内にも相当残っています。
1999年4月 1980年12月
一階の角には、イギリスの伝統あるバークレー・バンクのアメリカ現地法人の支店がありました。 自動車のローンにはかなり強く、私も世話になりましたが、もう何年も前にコンシューマー・バンキングから撤退し、この一角も暫くは空き家でした。
斜め前のビルも銀行。 面白い事に昔は1行を除いて、銀行は2軒づつ必ず向かい合っていました。 どうしてでしょうね。
そちらの銀行は、この村にもう1つ支店があり、小さな地方銀行の一環でした。 私が来てからは経営陣と名前が2回変わり、現在は全米で中クラスの銀行に吸収されています。 アメリカン・バブルの前の事で、2回共株を持っていた人は大儲けしたようです。
昔は連邦法に基づき、殆どの州の銀行法が州を超えてのフル・サービス業務を行う支店を持つ事を禁止していました。 私が来た頃の大銀行といえば バンク・オブ・アメリカ、ファースト・ナショナル・シティー・バンク、チェース・マンハッタン等で、いずれも預金高等で世界一、二を争っていました。
しかし国内の通常業務はその州の中だけ。 勿論、国外業務や全米でのビジネス・ローン、リーシング等は別ですが、その当時のアメリカの銀行の強さを思い知らされます。
日本で言えば都市銀行という事なのでしょうが、その州の中だけと言えば、日本の地方銀行がそのような性格だったと思います。
横浜銀行とか駿河銀行とかが世界のトップを競うのと同じなんて言ったら、飛躍し過ぎ、と怒られますね。
80年代にはその規則を廃止した州が過半数を超え、州を超えての吸収、合併が始まりました。
今現在4万少々の銀行とその支店があるようで、2/3が州内銀行、残りが全国銀行だそうです。
もっとも銀行数は1万5000程度という事なので、1銀行1店舗というのが殆どと言えるでしょうか。 そして銀行資産の2/3は全国銀行が保有しているそうです。
私が使っているチェース・マンハッタン・バンクも名前は残りましたが、実質的には一昨年ケミカル・バンクに合併吸収されています (が、名前は世界的に知られているチェースです。
2013年現在はモルガン・チェース)。
駅の近所の銀行の一つも、昔はチェースの支店だったのが合理化で閉鎖され、現在は小さな銀行が営業。
この村の銀行店舗数は現在8つ。 私が来てから変わってないのは、シティバンクとバンク・オブ・ニューヨークだけ(
2013年 現在はバンク・オブ・ニューヨーク・メロンで、窓口業務はチェースに売却され無い)です。
もっともシティバンクも私がアメリカに着た頃はファースト・ナショナル・シティバンクと呼ばれていましたし、今またトラベラーズ・インシュランス・グループと合併して又々変革しようとしているようです。
シティ・バンクの前にある(
2013年 当時のシティ・バンクはブロードウエイを北に2本行った所。 現在地はメイン・ストリートとブロードウエイの交差点。)小さな銀行、タレイタウンズ・バンクも最近迄は、タレイタウン・アンド・ノース・タレイタウン・セーヴィングズ・アソシエーションという長ったらしい名前がついていました。 1890年代に創立さていますが、改名される迄は正式な銀行ではありませんでした。
セーヴィングズ・アンド・ローンズ、又はエス・アンド・エルと呼ばれているもので、信用組合に当るのでしょうか。 名前の由来は、地域の住人が集まり、皆で金を積みたてながら順番に家を建ていく為の組織からで、日本でいえば昔の頼母子講のようなものでしょう。
元祖は18世紀のイギリス。 勿論家を建てる人達の相手だけではやっていけません。 一般からの預貯金集め、他の金融機関からの借入れ、ローンをしている家を担保にした証書の売買等が許可になり、行っていました。
アメリカも住宅建築促進の為にこの方法を導入。 しかし金融業者ではあっても銀行ではありません。
最近殆ど見聞きしませんが、セービングズ・バンクと名の付いた銀行がありました。
これも正式には銀行ではなかったそうで、日本流にいえば貯蓄銀行。 何で銀行でないのかは知りません。
しかし、これらの金融機関に競争力を付けるとか、金融業界の自由化と言う事で、1982年の議会でS&Lの規制を大幅に弛め、一般銀行と大差ない業務が行えるようにしました。
(この銀行の項は1997年の秋から冬にかけて書いていたものです。 変更は余りしないでおきます、と書いていましたら、タレイタウンズ・バンクから1999年3月に、「4月から他の地方銀行に合併吸収される」と手紙が来ました。この銀行も個人経営のようでしたから、資本力とか、後継者の事等で売りに出されたのでしょう。 これでタレイタウンのもう一つの顔も消えてしまいました。 もっとも駅のそばにある銀行と同じ名前になるだけの話ですが、本店は他の郡なのです)
旧S&Lもここ1店舗だけ。 利子もコマーシャル・バンク(日本の都市銀行)より上下の巾が大きいようです。 良い時には大変に良いのですが。 全ては経営者の胸の内。
S&Lとかセイヴィングズ・バンクといえば、日本のバブルがはじける前、アメリカで不動産関係の焦げ付き債権が増え、政府が救出作戦に出たのを記憶していますね。
最終的には600程の銀行が倒産に追い込まれたようです。 当時は不動産の値上がりが続き、天井知らず。住宅ローンの利息も最高で14%迄上がったと記憶しています。
買える内にと買い急ぐ人で拍車がかかり、銀行もどんどん貸し出しをした挙げ句の果てです。
ワンマン経営のS&Lが多く、放漫経営が問題になったのも相当あり、刑務所に入った旧経営者も何人かいます。
似たような事は1970年代に大きなコマーシャル・バンクでもありました。 その時は不動産ではなく、中南米諸国への貸し付けでした。 当時大銀行の経営が危ぶまれたものです。
日本でも同じ事が起きていますが、競争力からいえば、経営不振で見込みのない銀行はどんどん吸収させるか、潰すべきでしょう。 日本では考えられない程の吸収合併が繰り返されました。
銀行といえば、吸収合併だけでなく、サービスも180度の変針をしました。 私がアメリカに来た当時は、パスポートを見せるだけで簡単に口座が開けたのです。
日本でも知っていたファースト・ナショナル・シティ・バンクの或る支店で、オフィサーが丁寧に相手をしてくれ、すぐに仮りの小切手帳を作ってくれた時には、これでアメリカの一員になれたような気がしたものです。小切手帳も確かタダで呉れました。
今やソーシャル・セキュリティー・ナンバー(国民年金制度用の番号。 暫く前から、生まれて直ぐの赤ちゃんでも請求しなければならなくなりました。 勿論、旅行者では取れません。 では銀行口座が必要な留学生とかはというと、学生証と国許の親の財産証明等があれば、発行してくれるようです。 もっともナンバーの組み方が違うそうで、見る人が見たら直ぐに市民、永住権所有者ではないというのが分かるとの事)だけでも口座は開き難いようです。
これには麻薬の売上等、不法な金の出入りを防ぎたい政府からの要求もあります。
その上、今や小切手帳はおろか、小切手1枚書いても、口座に3000とか5000ドルなければ、手数料を取るようになりました。
銀行によっては、自社のキャッシュ・マシーンを使用する度にも、手数料を取る所もあるようです。 私の場合は、他の銀行のマシーンを使うと取られますし、コンピューターでのバンキングもしていますが、そのアクセス料も毎月取られます。
商業口座では入金にも手数料を取るようです(という事は商店等が毎日の売り上げを銀行に入金する度に手数料を取られるという馬鹿な話です)。
銀行側は設備投資に莫大な費用がかかるし、使用者が 24時間お金の出し入れが出来るのだから、サービス料を取るのは当然と主張しますが、人件費を大幅に浮かせ、その上での手数料ですから、銀行儲かってしょうがないようです。
少し位貸付金が焦げ付いてもコンシューマー・バンキングの方でカバー出来る等と考えられては敵いません。
その上銀行が発行しているクレジット・カードの利子の高い事。 一時のインフレーション時の 22パーセントはともかくとして、この低金利の時代に 15から 16パーセントの年利が当たり前。
支払いが1日でも遅れると レイト・フィー、最初は 15ドル位だったのが今や 30ドル。
カリフォルニア州の住民が銀行を訴えましたが、銀行はいくらでも罰金を取れる、という判決が出てしまいました。
その上年2回支払いが遅れるとハイ・リスクとされ利子を.20パーセント近くにされます。
カード発行者は、今までよりも多くの人がカードを所有するようになり、支払不能者が増えてきたからと言っていますが、勝手にカードをバラ撒いているのは誰だ、と言いたくなります。
昔私が自営業をしている時は、収入が普通にあっても自営業はハイ・リスクと発行してくれませんでした。 カメラ店でアルバイトをした時に申請したら一発。
今や大学生にもドンドン発行しますし、かなりの低収入でも定職ならば簡単に出ます。
カード地獄に落ち込んでカードの使い回ししている人もかなりいるようです。
銀行側も他のカードの残高を回せば、向こう半年とか1年は 5.9とか 7.9の利回りにする、と新しい申請書をのべつ送って来ます。
どの程度調査がルーズかというと、既にカードを持っている銀行から全く同じタイプのカードの勧誘が来るという事で想像できるでしょう。
家を所有していると尚更。多い時は月に数通の勧誘が来ます。
他の手口としては趣味や団体を通してのカード、環境保護団体や学校の同窓会のカードもあり、買い上げ金額の何パーセントかは、そちらに回す、とあります。
兎も角、アメリカ人は平均数枚のカードを持ち歩いているようです。
コンピューターでの銀行取引といえば、日本では相当前から電話を使って電気代の支払い等が出来たようですが、アメリカではその辺は銀行法の為に遅れていました。
暫く前に、殆どの銀行で、その銀行に関しての事だけはできるようになっていましたが、他の銀行が絡んで来る事はまだのようで、コンピューターを使っても、相手口座に直に振り込まれる事は少ないようです。
というのは先に書いたように小さな銀行が全米に散らばっており、まとめ難いと言う事と、銀行が直接相手の口座に入金するよりは、銀行小切手を送り、郵送と受け取り相手が口座に入金する迄の時間を利用して、その間を自己資金として運用、利ざやを稼ぐ為ではないでしょうか。
さすがに、支払いの注文があってから1週間以内に銀行小切手が着かなかった場合、銀行が責任を持つとは契約には書いてありますが。(
現在はコンピューター化が進み、異なると思います)
最近スーパー・マーケットでもクレジット・カードや銀行のキャッシュ・カードで支払い出来る所が殆どになりました。
これらのカードと並んで、最近デビト・カードを発行する銀行やクレジット・カードの発行者が増えてきたようです。
日本でも今年(1998年)からテスト使用が始まったようですね。 日本の場合は現金でカードを買う形になるのでアメリカとは少々異なります。
もっとも電話のカードの場合のように、店や銀行で購入できる使い捨てのデビト・カードもその内アメリカでも現れるでしょう(アメリカの公衆電話で、カードの挿入口が付いているものはエア・ポート等ごく一部。市販されているカードには発行者の専用番号が印刷されており、相手の局番の前にこのナンバーをダイヤルしなけらばならない。場合によっては 25桁の数字となる)。
このデビト・カード、銀行の都合で徐々にクレジット・カードに取って代わっていく事になりそうです。
今の所、カードに入っている額迄しか使えませんが、これもクレジット・カードと対抗する為に変わるでしょう。 しかし、これもふざけた話。デビト・カードに給料を払い込んで貰う訳ではありませんから、預金か小切手口座からカードに金を動かす事になります。
カードを使い切らない内は銀行が勝手にその金を運営して利益を上げるという寸法。 余裕がある人はマネー・マーケット・アカウントにでも預金しておいて、小切手の口座と連結しておけば利子が付きますから、クレジット・カードで買い物をして月1回まとめて払った方が得となります。
クレジット・カードの発達したアメリカ,私には大して得点があるとは思えませんが、銀行のやる事、どうなるのでしょうか。
デビト・カードの利点は遣い過ぎにならない事と残高がすぐ分かるという事位でしょう。これでデビト・カードを作るのに手数料を取られた日にゃ憤懣やり所無い、ですね。 (
私が2013年現在所有しているのは銀行のデビト/クレジット・カードです。キャシュ・カードは廃止されました。名の通り、どちらにでも使えるというカードです。普通は言わないとキャッシュ・カード(デビト・カード)として扱われ、口座からその場で落とされます。クレジットと言えば、クレジット・カードとなり、決められた日に口座から引かれます。その日、又は前日に支払いを済ませれば---普通預金と連動させ、小切手の口座はギリギリにしておき、その日にお金を動かせば---少しですが利子が稼げます。忘れるとえらい事になりますが)
今まで歩いてきた道はメイン・ストリート。 道はまだ続いていますが、この名前はここでお終い。
2006年 メインとブロードウエイの交差点 左:南に向かって 中:西向き 右:銀行の駐車場を見通して
2012年
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