タレイタウンには1977年から2007年迄住んでいました。 以下の文は1999年12月に書き終えたものです。 今更ですが、現在でも通用すると思われるので、手を加えながら写真を入れました。
(写真上をクリックすると拡大されます)
商店街、タレイタウンの他の地域
GMの工場、ロックフェラー、
タッパン・ジー・ブリッジ、近辺の交通事情、
タレイタウンのどうでもよい話
タレイタウンとは
私が住んでいる街の名はタレイタウン。 マンハッタンのグランド・セントラル・ターミナルからハドソン河沿いに北へ電車で約45分。 東京から大船位の距離でしょう。
車ですと30マイル弱(約48km)。 この街には1977年に引っ越してきました。
1969年にアメリカに来て以来、殆どマンハッタンに住んでいたのですが、市街地の生活に疲れてしまったのです。
歴史的に有名という事は別として、結構典型的な郊外の街、タレイタウンの話を中心に、私のアメリカ観を思いつくまま書いていきます。 話はあちこち飛びますが、なるべく判り易く並べていきましょう。
町ではなく街と書いたのは、ここは村だからです。 村といっても郊外の住宅地、 面積からいえば小さな村でも人口約 1万人。 正式な名前はウエストチェスター郡グリーンバーグ統合町タレイタウン村とでもなりますか。
村といえば、ニューヨークの近郊には日本では考えられない程、村があります。 近隣の村と合併して町や市に昇格する事より、その村々の歴史や特徴を大事にしたいという気持ちが強いからでしょう(有名な例外としては、ニューヨク市のブルックリン区。 昔は独立した大きな市でしたが、ブルックリン・ブリッジの完成を機にニューヨーク市と合併しました。 今でもブルックリンを誇りとして別格に扱っている住民も多いようです 現在はそうでもないようです)。
そういえば隣村のノース・タレイタウンが、名前をスリーピー・ホローに変えるかどうかで問題が起きているという話は、日本でも一部のテレビ・ニュースで取り上げたようです。
スリピー・ホローというのは、アメリカ最初の著名小説家が書いた本に出て来る架空の地名、実存していた訳ではありません。
以前はノース・タレイタウンも含めた一帯をタレイタウンと呼んでいたのですが、付属しているようで面白くない、という事があったのでしょう。
後で述べるジェネラル・モータースの工場閉鎖に伴い、取って代わる産業として、観光を推進していこうという背景もあります。 これについては後程にします。
一般住民には少々迷惑な話。 しかしビジネス、特に観光に便乗できそうな商売人とか、新しく転入してきた人達が中心になって改名運動を始め、1996年に成功したようです。 なんせ学校も一緒ですし、商工会議所も一緒。 逆に合併した方が、等と日本人は考えてしまうのですが。
(2013年 日本で道州制を採用しようという気風が起きています。 国が余りにも権限を持ち過ぎ、地方交付税などの配分には市町村の数が少ない方が楽なのか、と勘ぐっています。 合併して面積が大きく広がっても役所の機能を出張所に残さなければなりませんし、消防署、警察署の数もそんなに減らす訳にはいきません。 後で出てくると思いますが、消費税を含め様々の税金、手数料を地方税とし、その地区内で分配させる方が効率が上がると思います。)
ニュー・ヨークに近いせいか、或いは逆に近過ぎるからか、三つも有名な物があるのに、ニュー・ヨークっ子でもタレイタウンを知っている人は、最近迄そんなにいませんでした。 もっともその名物の一つ、GMの工場は1996年に閉鎖されてしまいましたが。
しかし後の二つは今でも健在。 タッパンジー・ブリッジとロックフェラー家の邸宅です。 これらについては、後程ふれる事にしましょう。
駅前広場
急行電車も止るタレイタウンのホームを降りると、先ず目に入るのが何も無い駅前広場と、向こうの崖っプチに建っている新しい三階建木造アパートメントの列。 昔を知っている私にはかなり目障りな存在です。
以前はホームから出ると、まず清掃局の古いコンクリート建てのガレージが目に入りました。 しかし清掃局と交通局が線路の反対側に総合設備を新築したのに伴い、取り壊されています。
その敷地の向こうは消防署と警察署の建物。 しかし駅から70m程先で急に立ち上がる丘に圧倒され、目には入りません。 30m程の高さはあるでしょう。 その途中にへばりついているような家何軒かがなければ、正に崖といえます。
氷河期にハドソン河の両岸が削り取られ、この様な崖を其処此処に残したのです。
2006年11月 右端が警察署 2012年
駅の右側には大きなアパートメント・ビルディングが一軒ありますが、あまり目立たず、印象としては、駅の周囲全て駐車場の空き地という感がします。 (2013年現在 駅前駐車場の2/3程の土地に村役場が移転新築され駅前はまるで変わってしまいました)
2012年6月 左端が村役場新庁舎 村役場新庁舎
駐車場の規模は違っても、郊外の通勤駅の駅前は殆ど似たり寄ったり。 この駅前は特にその感が強く、昔よくあった完成直後の政治駅のようです。 これは後述の交通革命の為。 殆どの大都会近郊の町で、このような風景が見られました。
しかし、この20年位の間に、ダウンタウン再開発が進められ、採算に合いそうな所では徐々に様子が変わりつつあります。
駅舎自体の再開発が大変に成功している例としては、ワシントンのユニオン・ステーションが挙げられます。 その真似をして全米中で大都市旧駅がそのやり方をコピーし、ニュー・ヨークのグランド・セントラル・ターミナルも成功例の一つとなります。
日本の駅ビルとは違い駅舎自体が巨大で、その内部を仕切り、店を作り上げていくのです。
東京駅丸の内側駅舎の奥行きを広げ、その高い天井の下に有名店が並んでいるのを想像して下さい。
(2013年 東京駅は改装されてしまいました。 三階を修復したのは納得できますがネギ坊主屋根迄修復したのには抵抗を感じます。昔の屋根を御存知の方は極少数派でしょうし、期間的にも短く、台形屋根の方が威厳があったような気がします)
この形ではありませんが、この近辺では、ウエストチェスター郡庁所在地ホワイト・プレーンズ市やポート・チェスター市等で、現在駅地域再開発が進行中です。
まず鉄道とバス、立体駐車場を一体にしたトランスポーテーション・センターを整備、その上や隣接地に、アパートメント、ホテル、ショッピング・モール等を建設というのが常套手段。
もっとも、ハドソン河沿いの通勤路線の沿線は、例の崖の為に立地条件が良いとは言えず、今の所大幅な変化は起きそうにもありません。
ホームの左手には旧い駅舎があります。 私が25年前に見た時と殆ど同じ外見。 以前は木製の古いホームが駅舎の裏側に2本あったのですが、新型車輌投入に際し、ホームの嵩上げが必要となり、ニューヨーク寄りに 2本のホームを新設、古いのは地下道もろとも取り壊しとなりました。
今でも時々旧式車輌が走っています。 見た目は電車というより昔の客車。
乗降ドアも昔の客車タイプの手動ドア。 ドアを開けるともろに小型の運転装置(といっても制御器とブレーキ台。 計器はブレーキの圧力計だけで速度計何ぞはありません)が目に入ります。
写真に見えるPCのロゴマークの裏辺りですが誰でも触れました。 たまに外し忘れたブレーキ・ハンドルが残っていたりして・・・ 椅子は反対側の壁に折り畳まれています。
乗降ドア内側の床にはヒンジの付いた鉄板があり、昔は低いプラット・ホームの駅に着く前に、乗客係がこの鉄板を跳ね上げ、下にあるステップで客の乗降車をさせていました。 (現在は近代化4世代目の川崎製車両が走っており、旧式車は勿論廃車になっています)
現在でも長距離列車の場合、地方の駅では舗装した道路状の帯がホームの役をしているだけ。
乗客係、昔はポーターが、降りる客を前もって或る車輌に誘導し、先にホームに降りて木製のステップを置いていました。
(自分でドアを開け降りられる、というのは両刃の剣。 2007年帰国の暫く前、乗客がタレイタウン駅で完全停車を待たずに飛び降り転倒、亡くなりました。憶えている限りもう1件あり、その時は助かったと記憶しています。私も昔はしていましたが、この事故の後は乗客係の監視の厳しい事)
駅舎の横には古い跨線橋があります。最初に下車した時点では、屋根はあっても顔の高さ迄の腰板から上はむき出し。 冬になると雪が吹き込み、木の床も擦り減って、所々から下の線路が見えるという代物でした。
もっとも1920年代の写真では只の橋、屋根も付いていません。
小さな駅では、最近まで吹きっさらしのまま。 今は、エレベーター付きの跨線橋に改造され、朱色の鉄骨にガラス張りの構造はかなり目立ちます。
これは1990年に連邦議会が成立させたアメリカンズ・ウイズ・ディサビリティズ・アクトと言う法律に基づいたもの。
「精神的、肉体的な障害を持っている人達への公平な就業、一般への受入」をもたらす為の法律で、公共施設、公共交通機関は、身障者でも全て支障なく利用できるようにするという趣旨です。
階段の横に緩やかな傾斜の坂を作ったり、エレベーター、エスカレーターの設置等、公共建物では一般客も大いにこの恩恵を授かっています。 又、全ての都市バスにも車椅子用のリフトを義務づけています。
この法律も善し悪し。 まれにマンハッタンで、車椅子の乗客が乗するのを見かけますが、目標の二、三分ではまず無理。
まず運転手が車の中央部に行き、車椅子を固定する位置の座席に座っている客を他に移動させ、席を跳ね上げ、降車口のドアを開け、リフトを格納位置から出して下げ、道路に降ります。
車椅子をリフトに乗せると固定、バスの床迄上げます。 車椅子をバスにベルトで固定すると、先の逆の順序でリフトをしまい、ドアを閉めて、運転席に戻る訳です。
降ろす時は、一度リフトを地面の高さまで下げ、車椅子が落ちないようにするストッパーを出し、床の高さまで又戻すという作業が加わります。
見ていると五分弱かかっているようで、交通量の多い場所では渋滞すら誘発しています。 気が短い客はさっさと降りて歩き出す始末。
整備もよくないのか、一度は乗っていたバスのリフトが戻らず立ち往生。乗り換えさせられました。 それも10分程ああでもない、こうでもないした挙句です。
いかに使用頻度が少ないかを物語っています。 法律が出来てから、私はバスに何百回も乗っている筈ですが、車椅子の乗客と一緒になったのは、この時と、後もう二度だけ。
この法律を通す時には巨額な経費の為、かなりもめました。 法律の趣旨には大賛成ですが、ニュー・ヨーク市等の大都市のバスについて言えば、車椅子専用の無料バンを走らせ、電話での呼び出しや、特定地域での待ち合いサービスをした方が、安上がりと思っているのは私だけではないでしょう。
こういう事は各々の地方自治体に任せた方が、と思うのですが、性格上、連邦政府が立ち上がらざるを得なかったのでしょう。
なお現在ではエイズ患者やHIV感染者にもアメリカンズ・ウイズ・ディサビリティズ・アクトが適用されています。 このような法律は、他にもあり、少々頭をかしげるものもあります。
代表的なのは人種別の割り当て制(アファーマティヴ・アクション)。
マイノリティ(少数派)を人種差別から保護するのが目的です。
全米人口の10%は黒人、その後にスパニッシュ(主にメキシコとか中南米、特にカリブ海諸国のスペイン語を喋る人達)、エイジアン(我々、東洋人。最近はオリエンタルと呼んではいけないそうです)アメリカン・インディアン(これも新しい呼び方だとアメリカ原住民という事になってしまいますが)と続きます。
例えば大学入試の合格者の10%は黒人に割り当てられなければなりません。 成績が良くても、白人である為に落とされてしまう事も起きます。 これは、逆差別であると、再燃化しています。
1995.年には、連邦裁でアファーマティヴ・アクションを制限する法令が出され、カリフォルニア州では撤廃されてしまいました。 公共機関での採用にもこの枠はありますし、民間企業、特に大会社では、差別していると勘ぐられないように、女性やマイノリティの採用や昇進を進めています。
勿論、会社上層部の女性、有色人種の殆どの方達は実力でそこに到達したのでしょうが、時折、昇進に関して白人男性から訴訟が起こされたりしています。
公共事業にも枠が設けられ、女性を含む少数派経営の会社を優先させるようにしています。 時には該当会社が無く、入札希望社を探し回るという事も起こるそうです。
テキサス州では、この法律を撤廃させるかどうかで住民投票が行われましたが、少数差で存続される事になりました。
とにかく駅舎周辺は今でも昔の通勤風景を感じさせてくれます。 夫婦共働きの家庭が少なかった昔は、奥さんが駅まで車で送迎。 その為か、駅前の車寄せは Kiss & Ride とも呼ばれていたようです。
駅舎自体は大きな石を積み上げた砦のように頑丈そうな建物。 不恰好ともいえる巨大な屋根。 太い斜めの材木で支えられた長く深い軒先は、雨宿りに格好の場所。 風が少々強くても平気です。
これは1880年に完成した三代目の駅舎。 (ニューヨーク・セントラル鉄道形式と呼ばれていたようです。)
どんどん消えていったアメリカの旧い駅舎の中で、タレイタウンのように昔と殆ど同じ形で営業を続けている所は、珍しいといっても良いでしょう。
建物は残っていても他の用途に使われたり、(南隣のアーヴィントン駅舎は、建築事務所のオフイス。 北のフィリップス・マノーはヒストリカル・ソサエティーの所有物)改築されています。
道路側から中に入ると、正面にホーム側に出る戸。 左手奥に新聞スタンド、昼頃迄の営業ですが、コーヒーやドーナッツ等も売っており、一寸した商売になっているようです。
正面右の出っ張りの部分は駅員室。 小さな昔ながらの切符売窓口がこちらを向いています。
週日は朝から3時迄、一人の駅員が詰めているのですが、昼食時とか休憩時には列車の運行とは関係なく窓を閉めてしまいます。 こういう時は車内で車掌から切符を買うのですが、窓口の営業時間中に車内で切符を求めると 2ドルの罰金を取られるシステム。
車掌に説明するのに一苦労、なんて事は日本では考えられないでしょうネ(無人駅からの乗車では勿論OKなのですが)。
昔は、部屋の左右にある丸いスチームのラジエター(本当はお湯)を囲んで木製のベンチが並んでいました。 電車を待ちながらラジエターの周りで新聞を読んだり、世間話をしていたものです。 今は壁の下部に設置された電気暖房。
その壁も昔は細い板が上下方向に張り詰めてある凝ったもの。 天井も、同じ細い板を屋根裏に長手方向に貼り付けていました。 緩やかにカーブした高い天井。 裸電球が三つ四つ下がっていたように記憶してます。
擦り減った木の床と相まって雨の日などは薄暗く、ホームの待合所が整備されるようなってからは、電車を待つ人が一段と減っていました。
今の天井はプラスター・ボードの真っ白、ツルツル。 照明は12個もの電球が付いた照明器具2基と、天井に埋め込まれた白色球、大変に明るくなり、雰囲気はまるで変わってしまいました。 釣り天井にしなかっただけでも有り難いという事でしょうか。
床も今や茶色のタイル。 天井以外全て茶系統。 余り好きではありませんが、利用者は増えました。 一寸変わった建物ですが、北海道的とでもいえば、当らずとも遠からず、でしょう。
トロリー・カー と昔の繁華街
こんな村にも昔はトロリー・カー(俗にいうチンチン電車ですが、性格的に言えば路面電車、又は市街電車)が走っていたというのですから驚きです。
しかも駅前の急坂を登っていたというのには、もっと驚かされました。
もっとも駅の左手から駐車場をぐるっと大きく回リながら登って行く両側通行の道路、カーブの仕方が少々変なので不思議に思っていましたが、勾配を緩やかにする為に大きく円を描き、距離を取っていたのです。
それでもきつく、マニュアル・トランスミッションの車でスピードを一旦落としてしまうと、ギアを二段に下げないと登れません(アメリカ向けのマニュアル・トランスミッションですと1段で20km/h、2段で50km 程で切り替えるのが普通でしょうか)。
この坂を電車が登っていたというのは、常識では考えられないのです(碓氷峠より遥かにきつい。 80−90‰かそれ以上)。
トロリー・カーが走っていたという事は、昔から住んでいる人に聞いていましたが、始発点が何処だか最近迄わかりませんでした。
駅前を左手に行くと、線路に沿って北に向かう道と、右にカーブして登るのとに直ぐに別れます。 北に行くとマクドナルドが入っている余り流行らない小さなショッピング・センター。 それを過ぎダラダラと登って行くとスリーピー・ホロー村の中心になります。
2006年 人が立っている向こうが上り坂の入り口 右はミニ・ショッピング・センターの一部
駅前の駐車場の辺りは、昔デポ・プラザと呼ばれていて、トロリーはそこから出ていたのです。 和訳すれば、何の面白味もない「駅広場」。
この駅前広場には線路に平行する道が、もう一本あったそうです。 その名はオーチャード・ストリート。 マンハッタンにもオーチャード・ストリートがあり、そちらは今でも賑やかなアメリカ下町風の商店街。 昔は相当重要な位置を占めていました。
ここの同名の通りも、1800年代の後半から1930年代にかけて、店が建ち並び、映画館もあり、ビジネスの中心だったようです。 しかし徐々にすたれ、1969年にはアパートとショッピング・センター建設に伴いd道路は閉鎖の憂き目。
このあたり一帯は河川交通を利用して、1800年代位から小さな造船所、レンガ工場、製材所、骨ボタンの工場、絹布工場、製靴工場、陶芸所、製粉所、製氷所等があって、ハドソン河屈指の市場だったとか。
それに伴うオフイス、店等が出来ては消え、出来ては消えしてして歴史を漂っていました。
しかし1849年に鉄道が開通、駅が建設されたのです。 1905年には、湿地帯だった場所を埋め立て、貨物の入れ替え線を新設、駅も移転新築されました。 しかし、殆どの工場は1900年頃には消滅したようです。
マンハッタンから近いのに、駅前に2軒、近所にもう2軒、合計.4軒ものホテルがあったとか。
トロリー・カーは1897年に営業開始しましたが、1929年にはもう廃線。 今は何も無い駅前、昔の姿は想像もできません。 交通手段が変わる事で、街がこんなにも変わってしまったのです。
トロリー・カーは坂を登り、街の中心街、黄色のレンガで舗装されていたというメイン・ストリートを突き抜け、私が住んでいた家の前の道路を通って、ホワイト・プレーンズ市迄行っていたようです。
俗にアメリカで言うインター・バン。 インターは間を結ぶと言う意味があり、インター・ナショナルとかインター・ステートもその例。 バンは私の辞書には載っておらず、ドイツ語のバーンからきているのではないかと思っているのですが、それならば道となり、街と街を結ぶ道、という事になります。
自動車が普及する前、東部海岸やシカゴ、ロス等の大都市近郊や中小市町村を結ぶ為に、信じられない程の高密度で線路が敷かれていました。 殆どは馬車で運ばれていた農産物等の輸送用ですが、乗客も運んでいました。
人の動きが頻繁になるに連れ、高速で街を結ぶ必要性からインター・バンが生まれ、かなりの数となりました。
路面電車というのは道路上を走っているから路面電車、市街電車ともいいますね。
インター・バンは市街を出ると道路から離れ専用用地を走ります。 スピードも郊外では当時の一般電車並み。 昔の東急玉川線や、松本電鉄浅間温泉線等が法規上はともかく、この性格の鉄道に当ると思われます。
家の近くに旧い鋳鉄製の柱が何本か立っており、街灯用に使われています。 どうしてここだけ鉄柱なのか不思議でしたが、電車が通っていたのだと気が付きました。
電気、電話線用の柱としては中途半端な位置にある小さな穴から、これらはトロリー・カー用の架線柱として昔使われていたと納得できたのです。 今となっては、昔から住んでいる人でも気付いてないようです。
GMの陰謀?
所で、チンチン電車は何故急速に消えて行ったのでしょうか。 車が便利になったから、という答えは当たり前。 しかし撤去しなくても、といわれた路線迄廃止されています。
その証拠に、市街電車やインター・バンを復活しようという動きがあり、既に走らせている都市もあります。 ライト・レール・トランシットとか、ピープル・ムーヴァーとか今の時代に合わせて名称を変えてはいますが。
デンヴァー ライト・レール ダラス ライト・レール
マンハッタンでも15年程前、タイムズ・スクエア地区の再開発の一環として、42ストリートに路面電車を走らせるという計画がありましたが、何となく立ち消えになってしまったようです。
さて自動車が増えた為という以外に、どんな理由があるのでしょう。 答えは、自動車の数を増やす為。別にふざけている訳ではありません。 暫く前に浮上した意見に、自動車製造業者の陰謀説というのがあります。
PBS(Public Broadcasting System の略。NHKの教育TV的なもの。セザミ・ストリート等の子供番組や教育番組、コマーシャル・ベースに乗らないような教養番組、音楽番組、映画を主に流しています)で最近放映された番組に「Taken for a Ride」というドキュメンタリーがありました。
関連ニュースが新聞にも載っていましたが、その時は半信半疑。 「Trains]という鉄道雑誌で、又この記事が現れ、もう一回考え直してみました。
これらの番組、記事によると、GMの社長が1932年に強力な「ナショナル・ユーサーズ・コンファレンス」という高速道路建設ロビーを作り、議会に圧力を加え始めたとの事。 名前からすると自動車利用者の会のよう思えますが、実状は石油会社、ゴム会社も加わった強大な資金力の政治圧力団体。
その後、GMは全米最大のバス会社2社を買い込み、「ナショナル・シティ・ラインズ 」(NCL)という会社を設立、1946年迄に全米80都市以上の公共交通機関を押さえる迄になったのです。
GMは関係を否定していましたが、運営局長はGMが買収した会社から。 役員もGMが始めたグレイ・ハウンドのバス会社から来ていました。
昔の市街電車は殆どが民営。 バスを平行運営していた会社もあったでしょう。
買収してまず始めたのは、バスの方がきめ細かい運行が出来るという理由から、電車をどんどんバスに置き換える事です。
一旦、電車を廃止し、線路と架線を外してしまえば、復活させたくても後の祭り。 きめ細かい運行が出来るという事は、その逆にサービス・カットも簡単という事です。
第二次大戦前迄は、車やタイヤの信頼性は高くなく (年寄りの話に依ると、天然ゴムのタイヤは摩耗が早く、しょっちゅうパンクしていたようで、スペア・タイヤは必需品だったとの事)、道路の整備も含め、一般の人が安心して通勤に車を使うようになったのは1950年代に入ってからだと思います。
1953年にはアイゼンハワー大統領が当時GMの社長を国防省長官に任命。 又、ハイウエーの総合管理のトップは、GM筆頭株主デュポン家から。 冷戦状態という事もあって、全米のハイウエー網建設、整備を強力に推し進めました。
これ自体は結構な話なのですが、有事の時に陸地で大きな輸送力と効率を誇るのは鉄道。 しかし鉄道整備に金をかけたなんて話は一度も聞いた事がありません。
安くした料金で、バスに慣らさせる、特に中、長距離はそうだと思います。 バスが売れれば、バス製造会社、タイヤ会社、石油会社が儲かる。
バスに慣れた頃にサービスを落とし、今度は自動車を売る。 その頃には道路網も整備されている。 もっとも鶏と卵みたいなもんで、実際の因果関係はどうなっていたのかは分かりません。 しかしチンチン電車の寿命を確実に早めたのは事実でしょう。
資本主義最悪の(逆に言えば最高の)見本の一つと言う事ができますか。
実際にGMとNCL、それに関連した会社は起訴されて有罪となりました。 しかし罰金はたったの5000ドル。 今でも否定し続けているようです。
冷戦と交通網が出たついでにもう一つ。
アメリカに着いた時、グレイハウンドでサン・フランシスコからワシントン迄、一気に横断しました。
その後も長距離バスには何回か世話になってますし、鉄道もニュー・ヨークに着いた当初、ニュー・ヨーク、ワシントン、ボストンの間を列車に乗って何回か往復しました。
特に列車に乗った時の事ですが、都市に近くなるにつれ、景色が荒廃してくるのです。 ハイウエーでも所々見られました。
スクラップ・ヤードが至る所にある、と表現したらよいでしょうか。 矢張り鉄道の周囲は、衰退してまったのだな、とその頃は思っていました。
所が1970年代の或る日、ニュー・ヨーク・タイムズを読んでいる時に、言葉が出なくなるような記事を見つけてしまいました。
その記事には、もう役目はとっくの昔に終わっているのだから、そろそろ鉄道、道路の周辺を整備したら、というような事が書いてあったのです。
万が一他国 (勿論、昔のソ連ですが)と戦争状態に入り、偵察や空爆、最悪の事態として他国軍が侵入して来た時に、短時間の内に線路を付け替え、スクラップの自動車等を線路や道路にばらまき、オンボロの建物を潰して、情景を変え敵の目を欺こうとする作戦があったのです。
その為のスクラップ・ヤードでした。 ですから幹線の鉄道やハイウエーの側によく見かけたのです。
政府のどの機関が管理 (実際に政府が保有、管理していたのでは、勿論ありません) していたのか忘れてしまいましたが、命令が出てから何時間の内に作業を終わらせるとか、地域的にどのように進めていくとか、かなりはっきりした作戦案があったようです。
ついでにもう一つ。 今でも時々見かけますが、黄色と黒でデザインされた表示が、大きなビルの入り口によく貼ってありました。 これは、このビルの地下に防空壕設備があるという印。 私が来た頃は、あちらこちらの大きなビルの殆どに、このマークが付いていました。
1978年 柱の右上隅のサイン。 Fallout Shelter とあり、直訳すれば核爆発により発生する物質から守る設備、ですが、俗に核シェルターと呼ばれています。
非常食や飲料も、相当人数が数日間食べられる量を保存しておく義務がありました。 この設備、本来は原爆投下への自衛手段として造られたのですが、被爆国の日本人としては、こんな設備でどの位の人が助かるのかと疑問に思いました。
又、裏庭を掘り起こして防空壕(核シェルター)を作り、非常食等を常備する事も奨励され、全米で実に何万軒かの家の庭に設置されました(総数からいくと10万以上作られたようです)。
もっとも、殆どが簡単な作りで、とても核戦争に耐えうる代物ではありません。
1950年代のニュースを見ていると、学校の授業中に行われる対原爆訓練風景が出て来ます。 サイレンが鳴り始めると机の下に潜り込むだけの話で、日本の対地震訓練と大して変わりません。
当時の政府は核兵器の本当の怖さを国民に知らせてはいなかったのです。 原爆開発国のアメリカ、日本では考えられない事をやっていました。
という訳で、ソ連に対する不信感、恐怖感とかは深刻に存在したのです。 正に冷戦。
最近の木造アパート
さて、駅から、丘の上にある街の中心に行ってみましょう。 坂を登るには二通りの方法があります。 左手から行く道は大きく半円を描き、少し緩やかに上っていきます。 右手の方は、消防署迄は直線。その先でYの字型に分かれ、左側が街の商業地に向かう道です。 坂はきつく狭いので一方通行。
2006年12月 左の建物が消防署 2012年 写真ではそんなにきつく見えない
横浜に住んでいる人には判ると思いますが大変な坂。 マニュアル・シフトの車ですとギヤ二段目でも厳しい。 歩く時は、体を相当前のめりにしないと登れません。 通勤者にとっては心臓破りの坂。 とは言え、きついのはホンの40m位。それからは先はダラダラした上り坂。
少し登ると右側に細い通りがあり、駅から見えたグレーの一寸派手なアパートメントの列が見えます。 通りの反対側にも木造モルタル塗りのアパートメント群。
こちらは地形を上手く利用していますし、枠組みも茶色を使っていますので、反対側のアパートメント群より目立ちません。 このアパート群は岩を爆破しながら十年程前に造られたもの。
通勤途中、工事の進行具合を見ていましたが、地震国日本で生まれた私にとって、住んでみたいと思える建築ではありません。
建て方は俗にいうツーバイフォー(2X4)建築。 駅に近い事と眺望の良さで、当初は一軒平均約15万ドルで売り出したという記憶があります。 しかし完売する迄に相当時間がかかりましたし、最後の頃は値引きをしていました。
これらのアパートメントは2DKプラスという間取りで、床面積約40坪位というのが主流のようです(2013年 現在の取引価格は当時の3倍程ではないでしょうか)。
正面が新庁舎。左上が最初のアパート群。中央上から右が次。右に増築されていった。
アメリカで家を売買する時には住所が物を言います。 まず地域、その地域の何処の町か、そしてその町の何処の辺りで、どの通りに面しているかと言う事です。
ニューヨーク近郊の町で言えば、ウエストチェスター群のブロンクスヴィル、スカースデール、ニュー・ジャジー州バーゲン郡のアルパイン。
マンハッタンの中なら、パークやフィフス・アヴェニューの70ストリート当りとか、ビークマン地区とかです。
郊外では駅の周辺ほど安くなっていくのが大よその常識でした。 これは駅周辺が最初に商業地として開発され、建っているのは、殆が古いレンガ造りの隣同士繋がったビル。
店の上がアパートメントになっている場合が多く、住人は交通手段を持たない低収入者用が殆ど(駐車場は近所でもまず見当たりませんから)。 その上間取りが悪く部屋も狭い。 再開発されていない駅前は環境も良いとは言えません。
収入が増え郊外に家を持つというのは戦前からですが、完全な車社会になった1950年代から1960年代にかけ、白人達が大都市の中心から大移動を始めました。 新しく家庭を作る人、学校に通い出す子供を持つ親達です。 この街の人口も 50、60年代に急増したようです。
大都市中心部既存のアパートメント群は、郊外の駅前と同じように古いビルのまま(映画ウエスト・サイド・ストーリーを思い出して下さい)。
それらのアパートメントは殆どがレールロード・フラットと呼ばれるもの。 部屋が細長く一列に配置され、各部屋を通らないと最後の部屋に行けないような間取りで、昔の客車を例えて付けられた名前。 移民が急激に増えた頃に収入の低い労働者用に大量に建設されたました。
これらのアパートメントは戦争中に出来たレント・コントロール法(家賃抑制法とでもしておきましょう)の為に、大幅に家賃を上げる事が出来ない、出来ないから儲からない、儲からないから設備投資をしない、そんなビルには勿論金持は入らない、という悪循環に陥りました。
人口的にも、財産も持たず英語もろくに喋れない移民がどんどん増えましたし、地方から仕事を探して低賃金労働者も流入してきました。 学歴、技術を持たない人達が増えるのですがら、人種問題もからみ、失業者が増えます。
失業者が増えれば犯罪も増加しますし、公共福祉費も増大します。 そうなれば公共サービスの質が落ちる。 落ちれば、企業も個人も安全でサービスの良い郊外へ逃げ出す。 中産階級の白人が都市から流失したのです。
その連中が去れば、商売の売り上げも減り、減れば、又失業者が増えると云ういたちごっこ。 悪いのは、この上に税金が関わってくるのです。 少なくなった企業と住民からの税金で、今迄と同じ公共サービスを続けなければなりませんが、福祉費は確実に増えていきます。
行き着く所は増税。 そうなれば流出に一層拍車がかかる。 完全な悪循環です。
この現象は暫く前にジェントリフィケーションという現象でやっと歯止めがかかりました。
これは郊外の良い環境地域の家屋価格が上がり過ぎ、若い世代に家が手に入り難くなった事と、結婚年齢、ひいては子供を持つ年齢が上がってきた事から始まります。
値段の更に安い郊外に出れば通勤時間が増え、その上、駅迄の公共交通機関は無いに等しく、車一人一台が不可欠になります。 通勤に疲れた上に出費も嵩みます。
その一方、都心の古いビルは、前にも書いた通り投資の対象から外れ、手入れが行き届かなくなりました。 そうなると住人が逃げ出したり、家賃不払い運動が起きたりします。 不動産税は支払わなければなりませんから、大家によっては放置して夜逃げをしたり、保険金欲しさに放火をしたのです。
ハーレム、サウス・ブロンクス等でよく見かけられた焼け落ちたアパートメント・ビルのかなりのケースがこれに当てはまります。 空きビル状態になっているので、ドラッグ・ディーラーやホーム・レスが入り込んでの失火や、放火もあります。 という訳で、都心に空きビルや空き地が増えたのです。 ここに目をつけた業者がいます。
数ブロックの広さでしたら、空きビル、空き地を安く買い叩き、まだ住人がいるビルであれば引越しをさせます。 良心的な業者は代替アパートメントを提供しますが、悪徳業者は暖房、水道、電気等の保守をやめ、故障しても放置どころか、生活の邪魔迄してニュースになりました(日本でも不動産バブル時に起きたようですね)。
こんなに極端でなくても、空きビル一,二軒から始める再開発もあります。 少しづつ、場合によってはアパートメント一軒毎に綺麗に改築しながら、値段を通常より安くして貸したり、売りに出します。
カーター元大統領がノン・プロフィット・コーポレーションを通し、アパートメントの改築でハンマーを振るっていたのは有名な話です。
ビル自体が安全で、中が綺麗、その上安ければ借りる人もどんどん出てるというもの。 特に学生とか、芸術家、地方から出てきたばかりでお金が十分でない人達。
ある程度数が増えれば、収入の高い連中の為に広い間取りや、金をかけたアパートへの改築が始まり、 周囲の店も増え、アップ・スケールの店も開店しだします。
このシステムが進行始めると、低所得者達は住み難くなり出て行かざるを得なくなります。 こんな具合に低所得者を追い出し、中流層に戻って行く現象をジェントリフィケーションと呼ぶのです。
大家が始めなくても何となく進行して行く場合もあります。 マンハッタンのソーホーとかブルックリンの一部、いわゆる昔の軽工業地区。
ニューヨークは印刷、繊維等の中心地だったのですが人件費、光熱費、税金等が上がり、1960年代にはニュー・ジャジーとか南部の州に移転したり、潰れたりした企業が増えました。
大きいビルでなくても一階につき250から500u程ありますから、持ち主にとっては大変な損失。 とはいえ古いビル、借り手がありません。 これに目を付けたのが高い天井と広い空間が必要な芸術家とか写真家達。
驚く程の安い家賃で借りては中を改造し、スタジオ兼もぐりの住居として使うようになりました。 彼等が増えれば、それに伴い周囲の店も良くなって来ます。
ギャラリーやブティックが増え、観光地化され、それを嫌った連中が、ファッショナブルな環境と広いスペースに惹かれた成り金の弁護士や会計士等に高く売りつけ出ていってしまったのが、今のソーホーと言えるでしょう。
軽工業地区といっても入る企業がなければ意味が無く、住む事も合法化されていきました。 今やチャイナ・タウンの近辺からブルックリンの一部に迄、安い家賃を求めた芸術家が住むようになっています。
これに似たのがゲイの連中。 私が来た頃は、まだ地下に潜っていた状態 (当時もう死文化されており、今あるかどうか知りませんが、同性同士で手を組んで公道を歩いても罰せられる、という大変古い州の法律があります)した。
仲間同士の連帯が強い為か、地位や金を持っている連中が多かったようです。
そして、ゲイの自由運動が表面化されてきた70年代から大っ平に同棲生活を始めるカップルが増えていきました。 しかし、一般のアパートでは中々貸してくれない。 そこで人気の無い地域で借り手が無いようなアパートを借りては中をきれいに改造し、一つのコミュニティーを造りあげていったのです。
金を持っていますから、彼等を追って今度はファッショナブルな店が移転して来る、金の無いのは追い出されると言う訳で急変してしまったのが、マンハッタンのコロンバス、アムステル・アヴェニューの70代でしょう。 今はもう一般化されていますが。
勿論ハーレム、サウス・ブロンクス等、地域全体の環境が悪い場所に中流層を呼び戻すというのは難しいのですが、最近ではニュー・ヨーク州だけではなく、市や町等地方自治体が中心になって、低所得者用に再開発を進めています。
貸しアパートにすると住人の建物に対する責任感が薄くなるというので、低価格、低利子の分譲式が多いようです。
60年代に建てられた公立アパートは大規模なものが多く、様々の問題起き、取り壊すのにダイナマイトで破壊されるものが多くなってきたようです。 このような場合の跡地では、タウン・ハウス式 (一軒一軒が横につながっている二、三階建ての建物)にして空地を多く取る事により、住民に持ち家感覚を持たせる事で成功しているようです。
さて又土地とステータスの話に戻りましょう。 住む場所でステータスがかなり決まる。 これは何もアメリカだけに限られた現象ではないのですが、日本よりもはっきりと地位等を象徴しています。
金があればある程、大きな土地や景観を選ぶ事ができますし、隣人を選びます。 自然に金持ちのエリアとか中級階級の地域とかが決まってきます。 金持が多い町の金持ちが住んでいるエリアというのは、東京の田園調布でも比べ物にならないでしょう。
そういえば、1960年代中頃に、横浜でアメリカ軍人、軍属の居留地に迷い込んだ事がありました。 小学校の高学年の頃に横浜に住んでいた事があり、瑞穂埠頭とか、まだ米軍から返還されていない施設が幾つかある事は知っていましたが、こんな地域があるという事は話題にも上った事が無く、地図を見る事の好きな私でも当時の地図にはっきり記入されていたのかどうか。
広い芝生の上にポツンポツンとある木造二階建ての大きなアパートメント・ハウス。 日本人は全く見当たらず、見渡す限り日本のにの字もありません。 軍人や軍属は高級取りではありません。 その時に、日本に居ながら、日米の住居に対する感覚がこうも違うのかと思い知らされたのです。
3枚共 2006年 ボート・クラブ 右はボートの繋留所
3枚共 2006年 左はプーキープシー行 タレイタウン駅
2006年 左:跨線橋から河側北駐車場 その向こうに新しい住居群が 右:右の空き地が旧GM
2010年 2006年にはない建物 2012年 分譲アパートではないかと
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GMの工場、ロックフェラー、
タッパン・ジー・ブリッジ、近辺の交通事情、
タレイタウンのどうでもよい話
タレイタウンとは
この画像は拡大できません。 タレイタウン上空を通過するJFK-成田定期便から。 ほぼ自宅の真上を飛んでいたが、あの事件以後、もっと北側を飛ぶようになり、この景色は見られなくなった。
私が住んでいる街の名はタレイタウン。 マンハッタンのグランド・セントラル・ターミナルからハドソン河沿いに北へ電車で約45分。 東京から大船位の距離でしょう。
車ですと30マイル弱(約48km)。 この街には1977年に引っ越してきました。
1969年にアメリカに来て以来、殆どマンハッタンに住んでいたのですが、市街地の生活に疲れてしまったのです。
歴史的に有名という事は別として、結構典型的な郊外の街、タレイタウンの話を中心に、私のアメリカ観を思いつくまま書いていきます。 話はあちこち飛びますが、なるべく判り易く並べていきましょう。
町ではなく街と書いたのは、ここは村だからです。 村といっても郊外の住宅地、 面積からいえば小さな村でも人口約 1万人。 正式な名前はウエストチェスター郡グリーンバーグ統合町タレイタウン村とでもなりますか。
村といえば、ニューヨークの近郊には日本では考えられない程、村があります。 近隣の村と合併して町や市に昇格する事より、その村々の歴史や特徴を大事にしたいという気持ちが強いからでしょう(有名な例外としては、ニューヨク市のブルックリン区。 昔は独立した大きな市でしたが、ブルックリン・ブリッジの完成を機にニューヨーク市と合併しました。 今でもブルックリンを誇りとして別格に扱っている住民も多いようです 現在はそうでもないようです)。
そういえば隣村のノース・タレイタウンが、名前をスリーピー・ホローに変えるかどうかで問題が起きているという話は、日本でも一部のテレビ・ニュースで取り上げたようです。
スリピー・ホローというのは、アメリカ最初の著名小説家が書いた本に出て来る架空の地名、実存していた訳ではありません。
以前はノース・タレイタウンも含めた一帯をタレイタウンと呼んでいたのですが、付属しているようで面白くない、という事があったのでしょう。
後で述べるジェネラル・モータースの工場閉鎖に伴い、取って代わる産業として、観光を推進していこうという背景もあります。 これについては後程にします。
一般住民には少々迷惑な話。 しかしビジネス、特に観光に便乗できそうな商売人とか、新しく転入してきた人達が中心になって改名運動を始め、1996年に成功したようです。 なんせ学校も一緒ですし、商工会議所も一緒。 逆に合併した方が、等と日本人は考えてしまうのですが。
(2013年 日本で道州制を採用しようという気風が起きています。 国が余りにも権限を持ち過ぎ、地方交付税などの配分には市町村の数が少ない方が楽なのか、と勘ぐっています。 合併して面積が大きく広がっても役所の機能を出張所に残さなければなりませんし、消防署、警察署の数もそんなに減らす訳にはいきません。 後で出てくると思いますが、消費税を含め様々の税金、手数料を地方税とし、その地区内で分配させる方が効率が上がると思います。)
ニュー・ヨークに近いせいか、或いは逆に近過ぎるからか、三つも有名な物があるのに、ニュー・ヨークっ子でもタレイタウンを知っている人は、最近迄そんなにいませんでした。 もっともその名物の一つ、GMの工場は1996年に閉鎖されてしまいましたが。
しかし後の二つは今でも健在。 タッパンジー・ブリッジとロックフェラー家の邸宅です。 これらについては、後程ふれる事にしましょう。
駅前広場
急行電車も止るタレイタウンのホームを降りると、先ず目に入るのが何も無い駅前広場と、向こうの崖っプチに建っている新しい三階建木造アパートメントの列。 昔を知っている私にはかなり目障りな存在です。
以前はホームから出ると、まず清掃局の古いコンクリート建てのガレージが目に入りました。 しかし清掃局と交通局が線路の反対側に総合設備を新築したのに伴い、取り壊されています。
その敷地の向こうは消防署と警察署の建物。 しかし駅から70m程先で急に立ち上がる丘に圧倒され、目には入りません。 30m程の高さはあるでしょう。 その途中にへばりついているような家何軒かがなければ、正に崖といえます。
氷河期にハドソン河の両岸が削り取られ、この様な崖を其処此処に残したのです。
2006年11月 右端が警察署 2012年
駅の右側には大きなアパートメント・ビルディングが一軒ありますが、あまり目立たず、印象としては、駅の周囲全て駐車場の空き地という感がします。 (2013年現在 駅前駐車場の2/3程の土地に村役場が移転新築され駅前はまるで変わってしまいました)
2012年6月 左端が村役場新庁舎 村役場新庁舎
駐車場の規模は違っても、郊外の通勤駅の駅前は殆ど似たり寄ったり。 この駅前は特にその感が強く、昔よくあった完成直後の政治駅のようです。 これは後述の交通革命の為。 殆どの大都会近郊の町で、このような風景が見られました。
しかし、この20年位の間に、ダウンタウン再開発が進められ、採算に合いそうな所では徐々に様子が変わりつつあります。
駅舎自体の再開発が大変に成功している例としては、ワシントンのユニオン・ステーションが挙げられます。 その真似をして全米中で大都市旧駅がそのやり方をコピーし、ニュー・ヨークのグランド・セントラル・ターミナルも成功例の一つとなります。
日本の駅ビルとは違い駅舎自体が巨大で、その内部を仕切り、店を作り上げていくのです。
東京駅丸の内側駅舎の奥行きを広げ、その高い天井の下に有名店が並んでいるのを想像して下さい。
(2013年 東京駅は改装されてしまいました。 三階を修復したのは納得できますがネギ坊主屋根迄修復したのには抵抗を感じます。昔の屋根を御存知の方は極少数派でしょうし、期間的にも短く、台形屋根の方が威厳があったような気がします)
この形ではありませんが、この近辺では、ウエストチェスター郡庁所在地ホワイト・プレーンズ市やポート・チェスター市等で、現在駅地域再開発が進行中です。
まず鉄道とバス、立体駐車場を一体にしたトランスポーテーション・センターを整備、その上や隣接地に、アパートメント、ホテル、ショッピング・モール等を建設というのが常套手段。
もっとも、ハドソン河沿いの通勤路線の沿線は、例の崖の為に立地条件が良いとは言えず、今の所大幅な変化は起きそうにもありません。
ホームの左手には旧い駅舎があります。 私が25年前に見た時と殆ど同じ外見。 以前は木製の古いホームが駅舎の裏側に2本あったのですが、新型車輌投入に際し、ホームの嵩上げが必要となり、ニューヨーク寄りに 2本のホームを新設、古いのは地下道もろとも取り壊しとなりました。
今でも時々旧式車輌が走っています。 見た目は電車というより昔の客車。
乗降ドアも昔の客車タイプの手動ドア。 ドアを開けるともろに小型の運転装置(といっても制御器とブレーキ台。 計器はブレーキの圧力計だけで速度計何ぞはありません)が目に入ります。
写真に見えるPCのロゴマークの裏辺りですが誰でも触れました。 たまに外し忘れたブレーキ・ハンドルが残っていたりして・・・ 椅子は反対側の壁に折り畳まれています。
乗降ドア内側の床にはヒンジの付いた鉄板があり、昔は低いプラット・ホームの駅に着く前に、乗客係がこの鉄板を跳ね上げ、下にあるステップで客の乗降車をさせていました。 (現在は近代化4世代目の川崎製車両が走っており、旧式車は勿論廃車になっています)
現在でも長距離列車の場合、地方の駅では舗装した道路状の帯がホームの役をしているだけ。
乗客係、昔はポーターが、降りる客を前もって或る車輌に誘導し、先にホームに降りて木製のステップを置いていました。
(自分でドアを開け降りられる、というのは両刃の剣。 2007年帰国の暫く前、乗客がタレイタウン駅で完全停車を待たずに飛び降り転倒、亡くなりました。憶えている限りもう1件あり、その時は助かったと記憶しています。私も昔はしていましたが、この事故の後は乗客係の監視の厳しい事)
駅舎の横には古い跨線橋があります。最初に下車した時点では、屋根はあっても顔の高さ迄の腰板から上はむき出し。 冬になると雪が吹き込み、木の床も擦り減って、所々から下の線路が見えるという代物でした。
もっとも1920年代の写真では只の橋、屋根も付いていません。
小さな駅では、最近まで吹きっさらしのまま。 今は、エレベーター付きの跨線橋に改造され、朱色の鉄骨にガラス張りの構造はかなり目立ちます。
これは1990年に連邦議会が成立させたアメリカンズ・ウイズ・ディサビリティズ・アクトと言う法律に基づいたもの。
「精神的、肉体的な障害を持っている人達への公平な就業、一般への受入」をもたらす為の法律で、公共施設、公共交通機関は、身障者でも全て支障なく利用できるようにするという趣旨です。
階段の横に緩やかな傾斜の坂を作ったり、エレベーター、エスカレーターの設置等、公共建物では一般客も大いにこの恩恵を授かっています。 又、全ての都市バスにも車椅子用のリフトを義務づけています。
この法律も善し悪し。 まれにマンハッタンで、車椅子の乗客が乗するのを見かけますが、目標の二、三分ではまず無理。
まず運転手が車の中央部に行き、車椅子を固定する位置の座席に座っている客を他に移動させ、席を跳ね上げ、降車口のドアを開け、リフトを格納位置から出して下げ、道路に降ります。
車椅子をリフトに乗せると固定、バスの床迄上げます。 車椅子をバスにベルトで固定すると、先の逆の順序でリフトをしまい、ドアを閉めて、運転席に戻る訳です。
降ろす時は、一度リフトを地面の高さまで下げ、車椅子が落ちないようにするストッパーを出し、床の高さまで又戻すという作業が加わります。
見ていると五分弱かかっているようで、交通量の多い場所では渋滞すら誘発しています。 気が短い客はさっさと降りて歩き出す始末。
整備もよくないのか、一度は乗っていたバスのリフトが戻らず立ち往生。乗り換えさせられました。 それも10分程ああでもない、こうでもないした挙句です。
いかに使用頻度が少ないかを物語っています。 法律が出来てから、私はバスに何百回も乗っている筈ですが、車椅子の乗客と一緒になったのは、この時と、後もう二度だけ。
この法律を通す時には巨額な経費の為、かなりもめました。 法律の趣旨には大賛成ですが、ニュー・ヨーク市等の大都市のバスについて言えば、車椅子専用の無料バンを走らせ、電話での呼び出しや、特定地域での待ち合いサービスをした方が、安上がりと思っているのは私だけではないでしょう。
こういう事は各々の地方自治体に任せた方が、と思うのですが、性格上、連邦政府が立ち上がらざるを得なかったのでしょう。
なお現在ではエイズ患者やHIV感染者にもアメリカンズ・ウイズ・ディサビリティズ・アクトが適用されています。 このような法律は、他にもあり、少々頭をかしげるものもあります。
代表的なのは人種別の割り当て制(アファーマティヴ・アクション)。
マイノリティ(少数派)を人種差別から保護するのが目的です。
全米人口の10%は黒人、その後にスパニッシュ(主にメキシコとか中南米、特にカリブ海諸国のスペイン語を喋る人達)、エイジアン(我々、東洋人。最近はオリエンタルと呼んではいけないそうです)アメリカン・インディアン(これも新しい呼び方だとアメリカ原住民という事になってしまいますが)と続きます。
例えば大学入試の合格者の10%は黒人に割り当てられなければなりません。 成績が良くても、白人である為に落とされてしまう事も起きます。 これは、逆差別であると、再燃化しています。
1995.年には、連邦裁でアファーマティヴ・アクションを制限する法令が出され、カリフォルニア州では撤廃されてしまいました。 公共機関での採用にもこの枠はありますし、民間企業、特に大会社では、差別していると勘ぐられないように、女性やマイノリティの採用や昇進を進めています。
勿論、会社上層部の女性、有色人種の殆どの方達は実力でそこに到達したのでしょうが、時折、昇進に関して白人男性から訴訟が起こされたりしています。
公共事業にも枠が設けられ、女性を含む少数派経営の会社を優先させるようにしています。 時には該当会社が無く、入札希望社を探し回るという事も起こるそうです。
テキサス州では、この法律を撤廃させるかどうかで住民投票が行われましたが、少数差で存続される事になりました。
とにかく駅舎周辺は今でも昔の通勤風景を感じさせてくれます。 夫婦共働きの家庭が少なかった昔は、奥さんが駅まで車で送迎。 その為か、駅前の車寄せは Kiss & Ride とも呼ばれていたようです。
駅舎自体は大きな石を積み上げた砦のように頑丈そうな建物。 不恰好ともいえる巨大な屋根。 太い斜めの材木で支えられた長く深い軒先は、雨宿りに格好の場所。 風が少々強くても平気です。
これは1880年に完成した三代目の駅舎。 (ニューヨーク・セントラル鉄道形式と呼ばれていたようです。)
どんどん消えていったアメリカの旧い駅舎の中で、タレイタウンのように昔と殆ど同じ形で営業を続けている所は、珍しいといっても良いでしょう。
建物は残っていても他の用途に使われたり、(南隣のアーヴィントン駅舎は、建築事務所のオフイス。 北のフィリップス・マノーはヒストリカル・ソサエティーの所有物)改築されています。
道路側から中に入ると、正面にホーム側に出る戸。 左手奥に新聞スタンド、昼頃迄の営業ですが、コーヒーやドーナッツ等も売っており、一寸した商売になっているようです。
正面右の出っ張りの部分は駅員室。 小さな昔ながらの切符売窓口がこちらを向いています。
週日は朝から3時迄、一人の駅員が詰めているのですが、昼食時とか休憩時には列車の運行とは関係なく窓を閉めてしまいます。 こういう時は車内で車掌から切符を買うのですが、窓口の営業時間中に車内で切符を求めると 2ドルの罰金を取られるシステム。
車掌に説明するのに一苦労、なんて事は日本では考えられないでしょうネ(無人駅からの乗車では勿論OKなのですが)。
昔は、部屋の左右にある丸いスチームのラジエター(本当はお湯)を囲んで木製のベンチが並んでいました。 電車を待ちながらラジエターの周りで新聞を読んだり、世間話をしていたものです。 今は壁の下部に設置された電気暖房。
その壁も昔は細い板が上下方向に張り詰めてある凝ったもの。 天井も、同じ細い板を屋根裏に長手方向に貼り付けていました。 緩やかにカーブした高い天井。 裸電球が三つ四つ下がっていたように記憶してます。
擦り減った木の床と相まって雨の日などは薄暗く、ホームの待合所が整備されるようなってからは、電車を待つ人が一段と減っていました。
今の天井はプラスター・ボードの真っ白、ツルツル。 照明は12個もの電球が付いた照明器具2基と、天井に埋め込まれた白色球、大変に明るくなり、雰囲気はまるで変わってしまいました。 釣り天井にしなかっただけでも有り難いという事でしょうか。
床も今や茶色のタイル。 天井以外全て茶系統。 余り好きではありませんが、利用者は増えました。 一寸変わった建物ですが、北海道的とでもいえば、当らずとも遠からず、でしょう。
トロリー・カー と昔の繁華街
こんな村にも昔はトロリー・カー(俗にいうチンチン電車ですが、性格的に言えば路面電車、又は市街電車)が走っていたというのですから驚きです。
しかも駅前の急坂を登っていたというのには、もっと驚かされました。
もっとも駅の左手から駐車場をぐるっと大きく回リながら登って行く両側通行の道路、カーブの仕方が少々変なので不思議に思っていましたが、勾配を緩やかにする為に大きく円を描き、距離を取っていたのです。
それでもきつく、マニュアル・トランスミッションの車でスピードを一旦落としてしまうと、ギアを二段に下げないと登れません(アメリカ向けのマニュアル・トランスミッションですと1段で20km/h、2段で50km 程で切り替えるのが普通でしょうか)。
この坂を電車が登っていたというのは、常識では考えられないのです(碓氷峠より遥かにきつい。 80−90‰かそれ以上)。
トロリー・カーが走っていたという事は、昔から住んでいる人に聞いていましたが、始発点が何処だか最近迄わかりませんでした。
駅前を左手に行くと、線路に沿って北に向かう道と、右にカーブして登るのとに直ぐに別れます。 北に行くとマクドナルドが入っている余り流行らない小さなショッピング・センター。 それを過ぎダラダラと登って行くとスリーピー・ホロー村の中心になります。
2006年 人が立っている向こうが上り坂の入り口 右はミニ・ショッピング・センターの一部
駅前の駐車場の辺りは、昔デポ・プラザと呼ばれていて、トロリーはそこから出ていたのです。 和訳すれば、何の面白味もない「駅広場」。
この駅前広場には線路に平行する道が、もう一本あったそうです。 その名はオーチャード・ストリート。 マンハッタンにもオーチャード・ストリートがあり、そちらは今でも賑やかなアメリカ下町風の商店街。 昔は相当重要な位置を占めていました。
ここの同名の通りも、1800年代の後半から1930年代にかけて、店が建ち並び、映画館もあり、ビジネスの中心だったようです。 しかし徐々にすたれ、1969年にはアパートとショッピング・センター建設に伴いd道路は閉鎖の憂き目。
このあたり一帯は河川交通を利用して、1800年代位から小さな造船所、レンガ工場、製材所、骨ボタンの工場、絹布工場、製靴工場、陶芸所、製粉所、製氷所等があって、ハドソン河屈指の市場だったとか。
それに伴うオフイス、店等が出来ては消え、出来ては消えしてして歴史を漂っていました。
しかし1849年に鉄道が開通、駅が建設されたのです。 1905年には、湿地帯だった場所を埋め立て、貨物の入れ替え線を新設、駅も移転新築されました。 しかし、殆どの工場は1900年頃には消滅したようです。
マンハッタンから近いのに、駅前に2軒、近所にもう2軒、合計.4軒ものホテルがあったとか。
トロリー・カーは1897年に営業開始しましたが、1929年にはもう廃線。 今は何も無い駅前、昔の姿は想像もできません。 交通手段が変わる事で、街がこんなにも変わってしまったのです。
トロリー・カーは坂を登り、街の中心街、黄色のレンガで舗装されていたというメイン・ストリートを突き抜け、私が住んでいた家の前の道路を通って、ホワイト・プレーンズ市迄行っていたようです。
俗にアメリカで言うインター・バン。 インターは間を結ぶと言う意味があり、インター・ナショナルとかインター・ステートもその例。 バンは私の辞書には載っておらず、ドイツ語のバーンからきているのではないかと思っているのですが、それならば道となり、街と街を結ぶ道、という事になります。
自動車が普及する前、東部海岸やシカゴ、ロス等の大都市近郊や中小市町村を結ぶ為に、信じられない程の高密度で線路が敷かれていました。 殆どは馬車で運ばれていた農産物等の輸送用ですが、乗客も運んでいました。
人の動きが頻繁になるに連れ、高速で街を結ぶ必要性からインター・バンが生まれ、かなりの数となりました。
路面電車というのは道路上を走っているから路面電車、市街電車ともいいますね。
インター・バンは市街を出ると道路から離れ専用用地を走ります。 スピードも郊外では当時の一般電車並み。 昔の東急玉川線や、松本電鉄浅間温泉線等が法規上はともかく、この性格の鉄道に当ると思われます。
家の近くに旧い鋳鉄製の柱が何本か立っており、街灯用に使われています。 どうしてここだけ鉄柱なのか不思議でしたが、電車が通っていたのだと気が付きました。
電気、電話線用の柱としては中途半端な位置にある小さな穴から、これらはトロリー・カー用の架線柱として昔使われていたと納得できたのです。 今となっては、昔から住んでいる人でも気付いてないようです。
GMの陰謀?
所で、チンチン電車は何故急速に消えて行ったのでしょうか。 車が便利になったから、という答えは当たり前。 しかし撤去しなくても、といわれた路線迄廃止されています。
その証拠に、市街電車やインター・バンを復活しようという動きがあり、既に走らせている都市もあります。 ライト・レール・トランシットとか、ピープル・ムーヴァーとか今の時代に合わせて名称を変えてはいますが。
デンヴァー ライト・レール ダラス ライト・レール
マンハッタンでも15年程前、タイムズ・スクエア地区の再開発の一環として、42ストリートに路面電車を走らせるという計画がありましたが、何となく立ち消えになってしまったようです。
さて自動車が増えた為という以外に、どんな理由があるのでしょう。 答えは、自動車の数を増やす為。別にふざけている訳ではありません。 暫く前に浮上した意見に、自動車製造業者の陰謀説というのがあります。
PBS(Public Broadcasting System の略。NHKの教育TV的なもの。セザミ・ストリート等の子供番組や教育番組、コマーシャル・ベースに乗らないような教養番組、音楽番組、映画を主に流しています)で最近放映された番組に「Taken for a Ride」というドキュメンタリーがありました。
関連ニュースが新聞にも載っていましたが、その時は半信半疑。 「Trains]という鉄道雑誌で、又この記事が現れ、もう一回考え直してみました。
これらの番組、記事によると、GMの社長が1932年に強力な「ナショナル・ユーサーズ・コンファレンス」という高速道路建設ロビーを作り、議会に圧力を加え始めたとの事。 名前からすると自動車利用者の会のよう思えますが、実状は石油会社、ゴム会社も加わった強大な資金力の政治圧力団体。
その後、GMは全米最大のバス会社2社を買い込み、「ナショナル・シティ・ラインズ 」(NCL)という会社を設立、1946年迄に全米80都市以上の公共交通機関を押さえる迄になったのです。
GMは関係を否定していましたが、運営局長はGMが買収した会社から。 役員もGMが始めたグレイ・ハウンドのバス会社から来ていました。
昔の市街電車は殆どが民営。 バスを平行運営していた会社もあったでしょう。
買収してまず始めたのは、バスの方がきめ細かい運行が出来るという理由から、電車をどんどんバスに置き換える事です。
一旦、電車を廃止し、線路と架線を外してしまえば、復活させたくても後の祭り。 きめ細かい運行が出来るという事は、その逆にサービス・カットも簡単という事です。
第二次大戦前迄は、車やタイヤの信頼性は高くなく (年寄りの話に依ると、天然ゴムのタイヤは摩耗が早く、しょっちゅうパンクしていたようで、スペア・タイヤは必需品だったとの事)、道路の整備も含め、一般の人が安心して通勤に車を使うようになったのは1950年代に入ってからだと思います。
1953年にはアイゼンハワー大統領が当時GMの社長を国防省長官に任命。 又、ハイウエーの総合管理のトップは、GM筆頭株主デュポン家から。 冷戦状態という事もあって、全米のハイウエー網建設、整備を強力に推し進めました。
これ自体は結構な話なのですが、有事の時に陸地で大きな輸送力と効率を誇るのは鉄道。 しかし鉄道整備に金をかけたなんて話は一度も聞いた事がありません。
安くした料金で、バスに慣らさせる、特に中、長距離はそうだと思います。 バスが売れれば、バス製造会社、タイヤ会社、石油会社が儲かる。
バスに慣れた頃にサービスを落とし、今度は自動車を売る。 その頃には道路網も整備されている。 もっとも鶏と卵みたいなもんで、実際の因果関係はどうなっていたのかは分かりません。 しかしチンチン電車の寿命を確実に早めたのは事実でしょう。
資本主義最悪の(逆に言えば最高の)見本の一つと言う事ができますか。
実際にGMとNCL、それに関連した会社は起訴されて有罪となりました。 しかし罰金はたったの5000ドル。 今でも否定し続けているようです。
冷戦と交通網が出たついでにもう一つ。
アメリカに着いた時、グレイハウンドでサン・フランシスコからワシントン迄、一気に横断しました。
その後も長距離バスには何回か世話になってますし、鉄道もニュー・ヨークに着いた当初、ニュー・ヨーク、ワシントン、ボストンの間を列車に乗って何回か往復しました。
特に列車に乗った時の事ですが、都市に近くなるにつれ、景色が荒廃してくるのです。 ハイウエーでも所々見られました。
スクラップ・ヤードが至る所にある、と表現したらよいでしょうか。 矢張り鉄道の周囲は、衰退してまったのだな、とその頃は思っていました。
所が1970年代の或る日、ニュー・ヨーク・タイムズを読んでいる時に、言葉が出なくなるような記事を見つけてしまいました。
その記事には、もう役目はとっくの昔に終わっているのだから、そろそろ鉄道、道路の周辺を整備したら、というような事が書いてあったのです。
万が一他国 (勿論、昔のソ連ですが)と戦争状態に入り、偵察や空爆、最悪の事態として他国軍が侵入して来た時に、短時間の内に線路を付け替え、スクラップの自動車等を線路や道路にばらまき、オンボロの建物を潰して、情景を変え敵の目を欺こうとする作戦があったのです。
その為のスクラップ・ヤードでした。 ですから幹線の鉄道やハイウエーの側によく見かけたのです。
政府のどの機関が管理 (実際に政府が保有、管理していたのでは、勿論ありません) していたのか忘れてしまいましたが、命令が出てから何時間の内に作業を終わらせるとか、地域的にどのように進めていくとか、かなりはっきりした作戦案があったようです。
ついでにもう一つ。 今でも時々見かけますが、黄色と黒でデザインされた表示が、大きなビルの入り口によく貼ってありました。 これは、このビルの地下に防空壕設備があるという印。 私が来た頃は、あちらこちらの大きなビルの殆どに、このマークが付いていました。
1978年 柱の右上隅のサイン。 Fallout Shelter とあり、直訳すれば核爆発により発生する物質から守る設備、ですが、俗に核シェルターと呼ばれています。
非常食や飲料も、相当人数が数日間食べられる量を保存しておく義務がありました。 この設備、本来は原爆投下への自衛手段として造られたのですが、被爆国の日本人としては、こんな設備でどの位の人が助かるのかと疑問に思いました。
又、裏庭を掘り起こして防空壕(核シェルター)を作り、非常食等を常備する事も奨励され、全米で実に何万軒かの家の庭に設置されました(総数からいくと10万以上作られたようです)。
もっとも、殆どが簡単な作りで、とても核戦争に耐えうる代物ではありません。
1950年代のニュースを見ていると、学校の授業中に行われる対原爆訓練風景が出て来ます。 サイレンが鳴り始めると机の下に潜り込むだけの話で、日本の対地震訓練と大して変わりません。
当時の政府は核兵器の本当の怖さを国民に知らせてはいなかったのです。 原爆開発国のアメリカ、日本では考えられない事をやっていました。
という訳で、ソ連に対する不信感、恐怖感とかは深刻に存在したのです。 正に冷戦。
最近の木造アパート
さて、駅から、丘の上にある街の中心に行ってみましょう。 坂を登るには二通りの方法があります。 左手から行く道は大きく半円を描き、少し緩やかに上っていきます。 右手の方は、消防署迄は直線。その先でYの字型に分かれ、左側が街の商業地に向かう道です。 坂はきつく狭いので一方通行。
2006年12月 左の建物が消防署 2012年 写真ではそんなにきつく見えない
横浜に住んでいる人には判ると思いますが大変な坂。 マニュアル・シフトの車ですとギヤ二段目でも厳しい。 歩く時は、体を相当前のめりにしないと登れません。 通勤者にとっては心臓破りの坂。 とは言え、きついのはホンの40m位。それからは先はダラダラした上り坂。
少し登ると右側に細い通りがあり、駅から見えたグレーの一寸派手なアパートメントの列が見えます。 通りの反対側にも木造モルタル塗りのアパートメント群。
こちらは地形を上手く利用していますし、枠組みも茶色を使っていますので、反対側のアパートメント群より目立ちません。 このアパート群は岩を爆破しながら十年程前に造られたもの。
通勤途中、工事の進行具合を見ていましたが、地震国日本で生まれた私にとって、住んでみたいと思える建築ではありません。
建て方は俗にいうツーバイフォー(2X4)建築。 駅に近い事と眺望の良さで、当初は一軒平均約15万ドルで売り出したという記憶があります。 しかし完売する迄に相当時間がかかりましたし、最後の頃は値引きをしていました。
これらのアパートメントは2DKプラスという間取りで、床面積約40坪位というのが主流のようです(2013年 現在の取引価格は当時の3倍程ではないでしょうか)。
正面が新庁舎。左上が最初のアパート群。中央上から右が次。右に増築されていった。
アメリカで家を売買する時には住所が物を言います。 まず地域、その地域の何処の町か、そしてその町の何処の辺りで、どの通りに面しているかと言う事です。
ニューヨーク近郊の町で言えば、ウエストチェスター群のブロンクスヴィル、スカースデール、ニュー・ジャジー州バーゲン郡のアルパイン。
マンハッタンの中なら、パークやフィフス・アヴェニューの70ストリート当りとか、ビークマン地区とかです。
郊外では駅の周辺ほど安くなっていくのが大よその常識でした。 これは駅周辺が最初に商業地として開発され、建っているのは、殆が古いレンガ造りの隣同士繋がったビル。
店の上がアパートメントになっている場合が多く、住人は交通手段を持たない低収入者用が殆ど(駐車場は近所でもまず見当たりませんから)。 その上間取りが悪く部屋も狭い。 再開発されていない駅前は環境も良いとは言えません。
収入が増え郊外に家を持つというのは戦前からですが、完全な車社会になった1950年代から1960年代にかけ、白人達が大都市の中心から大移動を始めました。 新しく家庭を作る人、学校に通い出す子供を持つ親達です。 この街の人口も 50、60年代に急増したようです。
大都市中心部既存のアパートメント群は、郊外の駅前と同じように古いビルのまま(映画ウエスト・サイド・ストーリーを思い出して下さい)。
それらのアパートメントは殆どがレールロード・フラットと呼ばれるもの。 部屋が細長く一列に配置され、各部屋を通らないと最後の部屋に行けないような間取りで、昔の客車を例えて付けられた名前。 移民が急激に増えた頃に収入の低い労働者用に大量に建設されたました。
これらのアパートメントは戦争中に出来たレント・コントロール法(家賃抑制法とでもしておきましょう)の為に、大幅に家賃を上げる事が出来ない、出来ないから儲からない、儲からないから設備投資をしない、そんなビルには勿論金持は入らない、という悪循環に陥りました。
人口的にも、財産も持たず英語もろくに喋れない移民がどんどん増えましたし、地方から仕事を探して低賃金労働者も流入してきました。 学歴、技術を持たない人達が増えるのですがら、人種問題もからみ、失業者が増えます。
失業者が増えれば犯罪も増加しますし、公共福祉費も増大します。 そうなれば公共サービスの質が落ちる。 落ちれば、企業も個人も安全でサービスの良い郊外へ逃げ出す。 中産階級の白人が都市から流失したのです。
その連中が去れば、商売の売り上げも減り、減れば、又失業者が増えると云ういたちごっこ。 悪いのは、この上に税金が関わってくるのです。 少なくなった企業と住民からの税金で、今迄と同じ公共サービスを続けなければなりませんが、福祉費は確実に増えていきます。
行き着く所は増税。 そうなれば流出に一層拍車がかかる。 完全な悪循環です。
この現象は暫く前にジェントリフィケーションという現象でやっと歯止めがかかりました。
これは郊外の良い環境地域の家屋価格が上がり過ぎ、若い世代に家が手に入り難くなった事と、結婚年齢、ひいては子供を持つ年齢が上がってきた事から始まります。
値段の更に安い郊外に出れば通勤時間が増え、その上、駅迄の公共交通機関は無いに等しく、車一人一台が不可欠になります。 通勤に疲れた上に出費も嵩みます。
その一方、都心の古いビルは、前にも書いた通り投資の対象から外れ、手入れが行き届かなくなりました。 そうなると住人が逃げ出したり、家賃不払い運動が起きたりします。 不動産税は支払わなければなりませんから、大家によっては放置して夜逃げをしたり、保険金欲しさに放火をしたのです。
ハーレム、サウス・ブロンクス等でよく見かけられた焼け落ちたアパートメント・ビルのかなりのケースがこれに当てはまります。 空きビル状態になっているので、ドラッグ・ディーラーやホーム・レスが入り込んでの失火や、放火もあります。 という訳で、都心に空きビルや空き地が増えたのです。 ここに目をつけた業者がいます。
数ブロックの広さでしたら、空きビル、空き地を安く買い叩き、まだ住人がいるビルであれば引越しをさせます。 良心的な業者は代替アパートメントを提供しますが、悪徳業者は暖房、水道、電気等の保守をやめ、故障しても放置どころか、生活の邪魔迄してニュースになりました(日本でも不動産バブル時に起きたようですね)。
こんなに極端でなくても、空きビル一,二軒から始める再開発もあります。 少しづつ、場合によってはアパートメント一軒毎に綺麗に改築しながら、値段を通常より安くして貸したり、売りに出します。
カーター元大統領がノン・プロフィット・コーポレーションを通し、アパートメントの改築でハンマーを振るっていたのは有名な話です。
ビル自体が安全で、中が綺麗、その上安ければ借りる人もどんどん出てるというもの。 特に学生とか、芸術家、地方から出てきたばかりでお金が十分でない人達。
ある程度数が増えれば、収入の高い連中の為に広い間取りや、金をかけたアパートへの改築が始まり、 周囲の店も増え、アップ・スケールの店も開店しだします。
このシステムが進行始めると、低所得者達は住み難くなり出て行かざるを得なくなります。 こんな具合に低所得者を追い出し、中流層に戻って行く現象をジェントリフィケーションと呼ぶのです。
大家が始めなくても何となく進行して行く場合もあります。 マンハッタンのソーホーとかブルックリンの一部、いわゆる昔の軽工業地区。
ニューヨークは印刷、繊維等の中心地だったのですが人件費、光熱費、税金等が上がり、1960年代にはニュー・ジャジーとか南部の州に移転したり、潰れたりした企業が増えました。
大きいビルでなくても一階につき250から500u程ありますから、持ち主にとっては大変な損失。 とはいえ古いビル、借り手がありません。 これに目を付けたのが高い天井と広い空間が必要な芸術家とか写真家達。
驚く程の安い家賃で借りては中を改造し、スタジオ兼もぐりの住居として使うようになりました。 彼等が増えれば、それに伴い周囲の店も良くなって来ます。
ギャラリーやブティックが増え、観光地化され、それを嫌った連中が、ファッショナブルな環境と広いスペースに惹かれた成り金の弁護士や会計士等に高く売りつけ出ていってしまったのが、今のソーホーと言えるでしょう。
軽工業地区といっても入る企業がなければ意味が無く、住む事も合法化されていきました。 今やチャイナ・タウンの近辺からブルックリンの一部に迄、安い家賃を求めた芸術家が住むようになっています。
これに似たのがゲイの連中。 私が来た頃は、まだ地下に潜っていた状態 (当時もう死文化されており、今あるかどうか知りませんが、同性同士で手を組んで公道を歩いても罰せられる、という大変古い州の法律があります)した。
仲間同士の連帯が強い為か、地位や金を持っている連中が多かったようです。
そして、ゲイの自由運動が表面化されてきた70年代から大っ平に同棲生活を始めるカップルが増えていきました。 しかし、一般のアパートでは中々貸してくれない。 そこで人気の無い地域で借り手が無いようなアパートを借りては中をきれいに改造し、一つのコミュニティーを造りあげていったのです。
金を持っていますから、彼等を追って今度はファッショナブルな店が移転して来る、金の無いのは追い出されると言う訳で急変してしまったのが、マンハッタンのコロンバス、アムステル・アヴェニューの70代でしょう。 今はもう一般化されていますが。
勿論ハーレム、サウス・ブロンクス等、地域全体の環境が悪い場所に中流層を呼び戻すというのは難しいのですが、最近ではニュー・ヨーク州だけではなく、市や町等地方自治体が中心になって、低所得者用に再開発を進めています。
貸しアパートにすると住人の建物に対する責任感が薄くなるというので、低価格、低利子の分譲式が多いようです。
60年代に建てられた公立アパートは大規模なものが多く、様々の問題起き、取り壊すのにダイナマイトで破壊されるものが多くなってきたようです。 このような場合の跡地では、タウン・ハウス式 (一軒一軒が横につながっている二、三階建ての建物)にして空地を多く取る事により、住民に持ち家感覚を持たせる事で成功しているようです。
さて又土地とステータスの話に戻りましょう。 住む場所でステータスがかなり決まる。 これは何もアメリカだけに限られた現象ではないのですが、日本よりもはっきりと地位等を象徴しています。
金があればある程、大きな土地や景観を選ぶ事ができますし、隣人を選びます。 自然に金持ちのエリアとか中級階級の地域とかが決まってきます。 金持が多い町の金持ちが住んでいるエリアというのは、東京の田園調布でも比べ物にならないでしょう。
そういえば、1960年代中頃に、横浜でアメリカ軍人、軍属の居留地に迷い込んだ事がありました。 小学校の高学年の頃に横浜に住んでいた事があり、瑞穂埠頭とか、まだ米軍から返還されていない施設が幾つかある事は知っていましたが、こんな地域があるという事は話題にも上った事が無く、地図を見る事の好きな私でも当時の地図にはっきり記入されていたのかどうか。
広い芝生の上にポツンポツンとある木造二階建ての大きなアパートメント・ハウス。 日本人は全く見当たらず、見渡す限り日本のにの字もありません。 軍人や軍属は高級取りではありません。 その時に、日本に居ながら、日米の住居に対する感覚がこうも違うのかと思い知らされたのです。
3枚共 2006年 ボート・クラブ 右はボートの繋留所
3枚共 2006年 左はプーキープシー行 タレイタウン駅
2006年 左:跨線橋から河側北駐車場 その向こうに新しい住居群が 右:右の空き地が旧GM
2010年 2006年にはない建物 2012年 分譲アパートではないかと
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