312_Tarrytown




















対岸は彼方、古い灯台がある。




2006年 北向き。 料金収容所(南向きのみ)辺りを通過中。高さを取りながら中央に向かう。





橋の下にマンハッタンが見える






















2016年7月 建設中の第 2 タッパン・ジー橋


 船の写真もある筈なのですが・・・
タグ・ボートに曳かれるバルジ  ほぼ毎日みられます  タンカーが多いようです




 右の小さなボートは確か警備艇
 多分、郡か村の所属
 外装エンジン2台 





 凍てつく朝焼けのハドソン河
























インディアン・ポイント原子力発電所



















ニューバーグ・ビーコン・ブリッジ  同形の橋が2本











1975年 マンハッタンの河口近く 突き出ているのは全て桟橋
昔、マンハッタンのハドソン河に面している南半分は櫛の歯の様に桟橋が並んでいた
船会社ごとに桟橋があり、ヨーロッパ航路の客船が出入りしていた。


















1975年 左に乗り入れていた貨車が見える。 ハドソン・ライン タレイタウン駅

2012年 アメリカ版TVG












ハドソン河とジョージ・ワシントン・ブリッジ 右はセントラル・パーク

手前に見えるのが、トライボロー・ブリッジのTの右部分。奥に見えるのがヘル・ゲート鉄道橋。アムトラックのニュー・ヨーク-ボストン間が使用。

1981年 ソーミル・リヴァー・パークウエイ


  タッパン・ジー・ブリッジ
マンハッタンから電車で来ると 20分程でハドソン河にぶつかり、州都アルバニー辺り迄、線路は河と付かず離れず。 これが旧ニュー・ヨーク・セントラル鉄道の有名なウオーター・レベル・ルート。 暫くすると長い橋が見えてきます。 これがタッパン・ジー・ブリッジ。
ヒッチコックの名作 「北北西に進路を取れ」 でケーリー・グラントがエヴァ・マリー・セイントの乗車する 「二十世紀特急」 の個室に逃げ込むシーンがあります。
列車が出発して暫くすると、窓が写る度に変わっていく河の景色が飛び込んできます。やがて遠くに橋が現れます。 この付近迄、1.5Km先ノ対岸は高い崖、氷河で削られた、という事がよくわかります。
列車は河岸の直ぐ横、水面からの高さ 1、2m程の所を走っています。 二人の会話の合間に近づいて来る橋が映画には忠実に描写されています。

           
       2007年アーヴィントン駅の手前           2009年 アーヴィントンの川岸から

全体的に釣り合いの取れた橋で、夜間のイルミネーションはその輪郭を浮き出させ、美しい姿を見せつけます。
この橋はニュー・ヨーク・スルーウエイの一部として1955年に完成。 長さ約8km。 車で渡るのに約5分。 名所とは言えませんが、街のポスト・カードの一つになっています。
ハドソン河はこの付近で最も幅が広くなり、4Km 以上。 夏には何漕ものヨットが浮かび、湖の感がしないでもありません。 
川幅が 4Km 位で何故橋の長さが 8Kmもあるのか?ですか。 大きな船が航行できるように橋の中央部を高くとり、又、航路部の幅を効率良く出来る限り広く取る為です。 
直線で斜めに横切ると、上り下りの勾配が急になり過ぎるので、距離が稼せげる様、両岸の取り付け部で河に対し橋を斜めに架け、航路部には直角で交差させ橋桁を必要以上に長くするのを防いでいます。
ケネディ空港発の日本行きの飛行機は、離陸後 5分程で必ずこの真上を通るので、この緩やかなS字型の様子が良く見えます。
暫く前迄の橋ですと(特に日本では)斜めに川にぶつかった場合、橋梁の長さを短くする為に、土手の手前で一度カーブさせ、直角に橋をかけ、対岸で又カーブをつけて元の方向に戻るようにしていますが、タッパン・ジーではその逆をしているのです。
観光地や海水浴場への橋は、大型トラック等の通行の必要がなく、船のマストをクリアする為に、急勾配の坂で一気に駆け上がり、又下がると言うのが多いようです。 典型的なのは、ヨット・レースで有名なニュー・ポートへ入る橋。 バス等で渡ると、ガード・レールは視界に入らず、遥か下に白い帆を張ったヨットが航跡を残しながら走っているのが見えたりし、飛行機にでも乗っているような気分になります。
             
 1970年 突然橋の上を走っていましたので、橋の写真はありませんが、ニュー・ポート・ジャズ・フェスティヴァルの会場写真

タッパン・ジー・ブリッジの最高部、水面からの高さがどの位あるのか調べてみましたが不明。30m以上はあるでしょう。 そのせいか、ここから飛び降り自殺する人も時々あり、この前も偽装自殺事件がありました。
殺人容疑から逃れる為、真夜中に橋の途中にエンジンをかけたままの車を置き去り、自殺のようにみせかけ犯人は歩いて渡ったそうです。 両側に細いスペースはありますが、人の通行は禁止です。
河の中央部分は俗にいう鉄橋。 最初はトラス式の変形かと思っていましたが、橋梁の設計技師である従兄弟に、あれもサスペンション・ブリッジの一種だよ、と教えられました。 

高い橋脚二組の上に立つ高い柱二組の間を、スロープを付けて鉄骨を組んでいるのですが、夜美しくイルミネーションが灯った橋の輪郭を遠くから見れば、確かに吊り橋の形。 その中央部の釣られている以外の部分は、コンクリート橋脚の上に鉄桁を乗せコンクリートとアスファルトで舗装したもの。 
最近、中央部の橋脚全体に幕が張られ、岸から眺めるとコンクリートで覆う工事でもしているかに見え案じていたところ、又、鉄の橋脚が姿を現わし、ほっとしています。
交通量が大幅に増え、モノレールでも走らせようか、というようなアイデアも出ているので、強度を増す為の工事だったのかもしれません。 

長い橋なので、鉄材の部分は真冬以外、必ず何処か塗り直ししています。舗装部分も時々掘り返しては下の鉄桁の修理をしています。
元々は片側三車線づつだったのが、通勤者の増大に伴い、中央分離帯をなくして一車線増やし、可動コンクリート・バリヤー(コンクリート製の移動式ガード・レール。フランスのアイデアで、日本でも使われていますね)を置き、平日は朝は東向き4車線、夕方からは西向き4車線に変えています。
もっとも保守作業が多い為、ラッシュ時以外は一車線閉鎖されている事が多く、それで車線を増やしたのではないか、とひがんでしまいます。

ここは 87号線と 287号線が一緒になっていますが、ニュー・ジャージー州での 287号線の最後工事が1997年頃に竣工。 ニュー・ヨーク市を通らないで南北に走行できる大迂回道路が完成し、大型トラックの通行も増えてきました。下流の鉄橋やトンネルより通行料が安い事もあります。
朝のラッシュでは、対岸からウエストチェスター郡中央に位置する最大の街、ホワイト・プレーンズ迄車が数珠繋ぎ、動かなくなる事も起きます。
駅の項で書きましたように、対岸のナイアックとタレイタウンを結ぶバスを増発したり(そもそも、こんなバスは昔走っていませんでした)、自家用車での乗合いを勧めているのですが、なかなか。
軽電車を中央分離帯の位置あたりに走らせようか、という事になって来たようです。 実現は難しいと思いますが。 それより可能性が大きいのは第二スルーウエー。 下流の方にもう一本橋を架けるかトンネルを作る案の方が強いようです。
対岸側は水面からの高さが低く、最初に通った時は、低い手摺超しに水の上を滑って行く感じで感激しました。

かなり大きな船も下を通過していきます。 主にバルジ(はしけ)ですが、バナナを運ぶ貨物船、俗に言うバナナ・ボートも見ますし、日本からの大きなコンンテナー船も一度見た事があります。 最大で1万5000トンから2万トン迄ではないでしょうか。
ボートでしたら、運河を使ってカナダ迄行けます。 ニュー・ヨークにしてもシカゴにしても河川はまだまだ貨物の運搬に使われています。 勿論、水深が日本の河川よりも深いと言う事もありますが。
第一次大戦の頃迄は帆船での荷物運搬がまだ多かったとの事。 そのせいかニュー・ヨークだけでなくあちらこちらで再現された帆船が見られます。

又、ハドソン河は、高度差が余り無く、流れは緩やかで 100Km 上流でも塩分が含まれており、上げ潮の影響は 200Km 以上 上流のアルバニー迄あるそうです。
この為に1970年代と記憶していますが、上流にあったGEの変電器工場が閉鎖された後、製作時に使用されていたPCBが大量に河底 に蓄積されているのが見つかり大問題になりました。
もっとも 流れが早ければ、薄まったとしても広範囲に公害が広がっていたでしょう。
10 年程の間、ハドソン河から取れた魚介類の摂取は制限されていました。この騒ぎの前には線路際で釣りをしている人達をよく見かけましたが、今でも副業で漁をする人が何人か残っているとか。 昔は漁船が沢山出て新鮮な魚を供給していたそうです。
1839年から橋が完成する迄は、フェリー・ボートが対岸のナイアックとの間を航行していました。
    
 左:2006年 北対岸のナイアック     中:南対岸のグランド・ヴュー・オン・ハドソン 

一月から二月にかけて本格的に寒くなり始めると、河の両岸から氷がはり出します。 寒さが続き出すと、風と流れの影響で氷がぶつかり合い、折り重なり、互いにくっついて盛り上がり、TVで見る北極の氷原のようになります。
     
     上3枚 2007年2月 水面が凍り始めている

船がたまに航行しますので、中程では水面が見えていますが、寒い冬で零下十度以下が続くと河は完全に閉ざされてしまいます。
昔は寒い冬が多かったのか、歩いて渡れたようで、砕氷船が第一次大戦後から出入りをした、と本にありました。
沿岸警備隊の船は時々見ますが、砕氷船はまだ一度も見た事はありません。 昔よりは暖かく なっているのでしょう。 暖かい日が続いたり、冬も終わりが近づくと、引き潮時には板状に割れた氷がかなりの速さで次々と流れ出し、高い所から眺めるのは壮観です。

さて、この辺で流域の歴史と説明でもしておきましょう。
タッパン・ジーのジーはオランダ語でシー、即ち海の事。 タッパンは対岸に住んでいたアメリカン・インディアンの種族の名前。 インディアンから取った名前は、かなり残っております。 
タレイタウンから北に上ると、次の大きな街はオシニング。 アメリカ人には、何処だか場所が判らなくても名前だけは有名です。
理由は刑務所。 凶悪犯罪人を入れる刑務所としてシン・シンの通称で通っており、「ティファニーで朝食を」 に出てきましたね。 シン・シンの由来もインディアンの名前から。 モヒガン族の部族 SintSink からきているとの事。 街の名前がインディアンの呼び名を変形したもので、刑務所の俗称が語源に近いというのも皮肉ですね。
この街の駅前も以前は酷い状態でした。プラットフォームの直ぐ河側には有刺鉄線が巻かれた高い塀が続き、監視塔も見えます。手入れが悪い薄汚い駅から河側には出れず、駅前からきつい丘が始まり、店等は無く、壊れかかったような建物が続いていました。
坂を登ると、そこが昔の中心地。完全に寂れていて麻薬の匂いがする、という感じで夜は歩けないな、と思いました。
ブロードウエイ迄出れば郊外の普通の街。暫く後で車で回りましたら、街の東側はゆったりとした住宅街。同じ街でこれ程ちがうのか、でした。 ここでもジェントリフィケーションが始まり、先程の中心地も観光地並みの町並みとなり、駅も改装されきれいになりました。

マンハッタンの名前は、この辺りからマンハッタン迄の間に住んでいたインディアン、やはりモヒガン族に属するマンハッタン族からとか。

この又少し北の小さな街ブキャナンにも有名なものがあります。 インディアン・ポイントの原子力発電所。 
名前は有名でも、それが何処にあるのか知っている人は少ないようです。 とは言う私も、この発電所が初期の大規模な商業用原子力発電所として有名、と日本に居た時から知ってはいたのですが、引越し先を探す迄、ニュー・ヨーク市からこんなに近い所にあるとは気が付きませんでした。
ブキャナンの街で小さな貸し家を見つけたのですが、さすがに止めました。 家賃も他の街と比べれば大変に安く、電気代も、この街だけ例外に安いのです。 もっとも大事故が起きれば、マンハッタンですら安全とは言えないでしょう。 そういえば、街角の電柱の上には警報用のスピーカーが付いていました。
ここから約10Km上流にウエスト・ポイントがありますが、その手前には昔からの観光地、ベア・マウンテン公園があり、遊覧船がマンハッタンから出ていました。

        
      1975年                    2010年 ベア・マウンテン・ブリッジ 大きな星条旗が

ハドソン河等の大河川では船で荷物を大量に運べるという事から、17世紀後半から既に多くの町が河岸に形成されていました。
タレイタウンもその一つ。小さな工場や、それに関連するオフイスが並び、工場、オフィスができれば、労働者に対するサービス業が必要となります。
交通機関が確立されていませんから、労働者は地元に住んでいる人達。 その家族をサポートするサービス業、と発展し一つの独立体を作っていました。 昔の川口市みたいなものでしょう。
鉄道網が整備され、輸送速度が向上すると、人手が必要な軽工業は多数の人間を安く雇える場所に、又、1930年代以降は組合の無い地方に移っていきます。
道路網の整備がそれに拍車をかけました。
この流れに乗れなかった町もあります。 5-60Km上流の対岸にあるニューバーグ市はその例で、水運の中心地として 19世紀に大いに栄えましたが、近くの大マーケット、ニュー・ヨーク市への交通の便は悪く、あっという間にさびれてしまいました。
ブルー・カラーの街ですから産業がなければみじめ。 1950年代にハイウエーが郊外を通り橋もできましたが既に手遅れ。 
1970年代に行った事がありますが、街自体がスラム状態の感有り、でした。 現在は軍用だった飛行場がインターナショナル・エアポートとして開放され、周囲に運送業を始めとする会社が集まり始め徐々に回復に向かっています。

ハドソン河の事を書いているのですから、次いでに地震の事も書きましょう。
日本から来た人に 「ニュー・ヨークでは地震がなくて良いですな」 と、時々言われます。
「あってもおかしくないのです」 と、私が答えると奇妙な顔をします。 
ハドノン河は元々断層があった所に氷河が押し出たもの。 人類の歴史上で大地震が起きていなかっただけの話。
マンハッタンは岩盤の上にあるようなものですから、近くで少々の地震が起きてもそんなに感じないだけの話。 歴史的には東部海岸沿いでも大きな地震波起きています。 マサチューセッツ州で1884 年にありましたし、同じ年代に起きたニュー・ヨーク市東方、ロング・アイランドの地震では街路樹が倒れたといいますから相当な強さの地震です。

最近では1998年(?)に起きています。 真夜中を過ぎた地震、マンハッタンでは気が付かなかった人もいたようですが、ウエストチェスター郡とその近辺では正に寝耳に水。
私はその夜何となく目が覚めました。やけに静まり、気配がおかしいのです。
窓のシェードを通して北側が何となく明るい。 インディアン・ポイントの原子力発電所がある方角です。
立ち上がってシェードを上げてみますと、何となく明るくなっているのですが、火事の様子もないし、第一サイレンも鳴っていません。 遠くてもこの静けさ、何かあれば聞こえて来る筈。

又ベッドに戻り30秒もすると、グオーッというダンプ・トラックが何台も一斉に走っているような音。
その直後にドーンと来ました。 ドーンというのは単なる表現ではなく、ショックと共にそのような音がしたのです。 一瞬押し下げられたような感じがした途端、上下動がドシドシと続きました。
棚から物が落ちる音。直下型の地震と直感しました。昔、日本でも経験した事があるやつです。
横に寝ていた妻も私が置き上がった時に目が覚めたようですが、こんな地震波は始めてだと言っていました。 十勝沖地震(昭和20年代中頃のです)を帯広で経験している私には、この程度の地震に怖さを持っていませんが、直下型でこの強さは始めてでした。 10秒も続いたでしょうか。
朝のラジオでは二つ南の村ドブス・フェリーの下が震源地だと言っていました。
マグニチュード3と記憶していますが、車で10分位の所が震源ですから、それ以上のように思われました。
その翌日か翌々日に余震が来ました。その時も何故か目が覚めていました。 マンハッタンでこの余震に気が付いた人はもっと少なかったようです。
地震と言えば地質学。 アメリカでの権威はドモン・ドハーティ地質観測所。
コロンビア大学と関係があるのですが、場所は川向こうのピアモント村にあり、7年間毎日仕事で通っていた道路の途中です。
一番最初に気が付いた時には、こんな交通量の多い場所にと不思議でした。 昔はもっと静かだったのでしょうけれども。 何処かで地震が起きると必ずここの見解が発表されます。 東大の地震研究所のような役割もしており、全米に地震観測網を持っているようです。
ここの見解ではハドソン河流域でも年に何百回か地震が起きているけれども、計器に現れるだけの無感地震が殆どで、地震は起きないと一般には思われがちだ、という事でした。


  近辺の交通事情
橋の次いでにこの近辺の交通事情を書いてみましょう。 ニュー・ヨーク州というのは長方形の右下隅に逆三角形を付けたような形。 この逆三角形の頂点に当るのがニュー・ヨーク市。
グランド・セントラル・ターミナル(GCT)からは三本の鉄道が北方に向かっています。
三角形の左辺を北に向かうのがハドソン・ライン。
マンハッタンが切れる辺りのブロンクス西南端で、マンハッタンにある もう一つの中央駅ペン・ステーションを出たアムトラックのバッファロー・シカゴ、カナダ方面行き列車と合流し(2013年12月、4名の死者が出た事故の現場)、通勤電車はクロトン・ハーモン、通勤列車はプーキプシー迄行きます。

進行方向左側に座れば、河沿いに走りますので景色が一番良い路線といえます。
中央を行くのがハーレム・ライン。
金持ちの住むブロンクスビルやスカーツデールを通り、郡第一の市ホワイト・プレーンズを抜け、電車はサウス・イースト、列車はワサイック迄行っています(この項を最初に書いた頃は数マイル手前のドーヴァー・プレインズ迄でした。)。

右辺の大西洋岸近くを走るのが、距離が最も長く (120Km弱 東京駅から三島の手前)、又利用客も一番多いニュー・ヘイヴン・ライン。
この線路もブロンクス区に入って間もなく、ペン・ステーションを出たボストン行長距離列車と共用になります。 通勤電車はニュー・ヘイヴン迄。 その他に非電化の支線が 3本。

ニュー・ヨーク市から北に向かう長距離列車は全てGCTから出ていたのですが、ワシントンやフロリダ方面に行く旅客は全てタクシー等を利用してペン・ステーション迄行かなければならないという不便さがありました。
各私鉄が列車を走らせていた頃は我慢が出来ても、全国統一企業体のアムトラックが設立され、旅客列車の運営を始めてからは不満が多く、とうとう在来の貨物線を整備して長距離列車は全てペン・ステーションから発着するように改善されました。

ハドソンとハーレム・ラインの電化区間は地下鉄式の第三軌条。 
ニュー・ヘイヴン・ラインはブロンクスに入ってから架線からの交流電気を使用。
現在ボストン迄の路線、線路の改良、電化工事が行われており、1999年にはボストンとワシントンの間をTVGタイプの高速列車が走り出す予定です。
このような話は1970年代からあり、四分の一世紀をかけてやっと実現したという感じです(完成しています)。


道路網はハドソン河側から北上する主要な路線を書き出しますと、まず9号線。 これはニュージャシー州からジョージ・ワシントン・ブリッジを渡って高速 95号線と1号線と共に入ってきます。
95号と1号線は東にそのまま進み、 9号線は北に別れブロンクスでブロード・ウエイと合流し河の東側を北上します。
日本で言う旧国道にあたり、街を結び、繁華街といってもよい地区を通り抜けて行きます。 旧国道沿いに多いのは、車のディーラーとか家具のショールーム、ファースト・フード、場所に依ってはギャス・ステーションが林立しています。 高速を走っていて何かが必要になったら旧国道への出口を待てばまず間違いありません。

9号の東はニュー・ヨーク・スルーウエイの 87号線、ソーミル・リヴァー・パークウエイ、一番新しく出来たスプレイン・ブルーク・パークウエイー、ブロンクス・リヴァー・パークウエイ、ハッチンソン・リヴァー・パークウエイ、コネティカット州に入りコネティカット・ターンパイクと呼ばれ、ボストン迄行く向きを北に変えた先程の大動脈の95号線、そして最後に1号線となります。
1号線では9号以上に店が並んでいます。 ワシントンからボストン迄、旅行途中で何かが必要になったら、ハイウエーから下りて1号線を探してみる事です。

これは私の理解ですがパークウエーというのは、戦前に作られた道路で、郊外に出る為の遊びの道路。ですから道路は地勢に合わせ、坂もきつく、かなり曲がりくねっていますし、路肩も高速道路程整備されておらず、緊急用停車レーンもかなり後で整備されたようです。 
最高速度は大体が50マイル(80km)。 場所によっては、信号や交差点がある場合もあるので要注意。 景色と運転を楽しむのならパークウエイです。

ウェストチェスター郡を鍵字型に抜けるのはニュー・ヨーク・スルーウエイ(州間高速道路87号線)、これはタレイタウンでハドソン河を横切り、河の西側を北上し州都アルバニーの手前でボストン方面から来た90号線と合流、アルバニーで90号線と別れ、保養温泉で有名な サラトガ・スプリングスを通りカナダへと北上します。
90号線は殆ど真西に向かって直進し、バッファロー、ナイアガラ、カナダ、シカゴに向かうのですが、このセクションは夕方走ると季節によっては太陽が真っ正面に沈み大変に運転しづらくなります。

飛行場はJFK, ラガーディア、ニューアークの三大空港以外に、近場ですと、ホワイト・プレーンズにウエストチェスター・カウンティー・エアポートがあります。
昔は、私有飛行機用の感があったのですが、このところ整備され、メイジャーの航空会社も乗り入れており、シカゴに行くには便利になったようです(西海岸方面はシカゴで乗り換え)。

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