312_Tarrytown







































































ドーントレスの写真がないのでアヴェンジャーで

左右の緑色がC47輸送機



今は使われていない整備された引込み線 留置されているのは線路保守用車輌





































2006年













故ウイリアム・ロックフェラー氏の土地だった 右を登った所に大きな土台が残っていた。





























































































































































































































 生えていた木をそのまま使ったクリスマス・ツリー









































 1986年にリーガン大統領が訪問した際の写真
出発時に村の暇な人達が見送りのヴォランティアとして呼ばれ、手前に一列に並んだ  左隅が報道 
ヘリコプターで手を振っているのが大統領  妻撮影  
大きな海兵隊のヘリコプターも広大な敷地の中ではサイズを感じさせない。



















  ジェネラル・モータースの工場
以前、ジェネラル・モータースの工場がタレイタウンにあるんだと言っても、殆どのアメリカ人が信じられない顔をしました。 ニュー・ヨーク市郊外の歴史ある住宅地という感覚しかないからです。 工場は半端なものではなく、私がこの村に引越しをしてからでも、忙しい時には5000人が三交代で働く工場だったのです。

GMが乗客用ミニバンの開発を検討した時に、各部門毎(シヴォレー、ポンティアック、オールズ・モービル等)の工場で製作させるのではなく、一工場に全ての生産を集約する、という決定をしました。
その後、ラインの変更をする為に工場を閉鎖しても全体の生産計画に比較的影響の少ない工場、市場への近さ、誘致条件等で、この村の工場が選定されたようです。
最終的には2又は3ラインの流れで生産されるのではないか、と言われていたような気がしますが、ラインのフル操業は行われても追加はなかったようです。

帰宅が遅くなり真夜中に帰る事がありますが、暗くなった駅前の坂を乗用車が列を作って降りて来るのに何回か出っ喰わしました。 それも何十台もです。
最初は何だかまるっきり見当がつかなかったのですが、その内にGMの工場で深夜勤務につく工員達の車だと気が付きました。
電車が遅れたりすると、交代して帰宅する車の列にぶつかります。 昔は地元住民が多く働いていたようですが、この頃には殆どの工員が他の地域からの通勤。
地元の賃金が良くても、子供達には大都市の近郊ですから、足を伸ばせば汗水垂らさずに稼げる仕事があるのです。
この工場もかなりロボット化されたとはいえ、重労働だったようで、単調な仕事と給料の良さから麻薬に手を染める従業員もかなりいたとの事。
売人らしい人間を街で見た事がないので、一般多数を相手にしているのとは異なる特別なルートがあったようです。

まだノース・タレイタウンと呼ばれた頃に、村の警察のお偉いさんが、麻薬の不法所持と販売の容疑で逮捕されて大きなニュースになった事もありました。おまけに麻薬にからんでの撃ち合いもあったりして。
ニュー・ヨーク在住の日本人の間では、これらのニュースを聞いて、タレイタウンという街では暴動が起きたりして危ないんだ、という噂が広がってしまったようです。 お陰で日本人駐在社員が引越しをして来ず、せいせいしたものです。
麻薬といえば、妻が仕事で家庭訪問をすると、麻薬の影響を受けた子供が毎年何人かいたようです。 もっとも前にも書きましたように、工場の周辺でGMに勤めていた人は数える程しかなく、これらの麻薬常用者には、夢を追ってアメリカにやってきた無学、無技術の連中が多かったようです。
米国の移民法では、アメリカ国籍所有者の子供、配偶者最優先で永住権が出ますから、永住権を取り次第、国籍収得を待たずして芋蔓式に兄弟親子を呼び寄せます。
周囲にも、何でこんな程度の悪い奴に永住権を発行するのだろうか、というのがいました。 教育水準は低くても、法律を利用する事だけは良く知っており、仕事をせずして公からの援助金を取る事には長けています。
母子家庭への援助は悪くありませんから、子供が出来てから給付金欲しさに離婚するのもいますし、父親が誰だか判らない子供が何人もいる母親なんてのが続出します。
こんなのを見ていると何でこんな連中の為に税金を使わなければならないのか、と腹が立って来ます。
絶対に公からの援助は受けないと一生懸命働く人も多ければ、馬鹿らしくて働けるか、と動かない連中も結構いるのです。
最近になって失業保険法とか福祉法は、少しでも働かなければ資格が取り難くなるように変更されつつあります。

脱線しましたが、車の好きな人にこの工場の歴史を少々書いてみましょう。
1900年にモービル・カンパニー・オブ・アメリカという会社が工場をこの地に建設、Walker Steamerと名付けた多分スティーム・エンジンの車の製造を始めました。
 しかし1903年には既に閉鎖。
次に Maxwell Briscoe と言う会社が工場を1904年に買収し、車の生産を再開しました。 その頃は車のアッセンブリーだけでなく、工場内でパーツも作っていたようです。
面白い事に初期の自動車は右ハンドルだったとかで、左ハンドルの車を作り出したのは1913年からとの事。
1908年にはトニー・、カーチス、ナタリー・ウッド、ジャック・レモンが出演した映画「グレート・レース」で有名になったニュー・ヨークからシベリア経由パリ迄のレースに特製の12シリンダー・カーを出場させています。
製造が間に合わなくなりロード・アイランド州とミシガン州、それにシカゴにも工場を建設したようです。
 急激に拡張し過ぎたせいか、競争が激しくなった為か、1913年にはユナイテッド・モーター・カンパニーと合併をしますが、その二ヶ月後には倒産。
1915年にシェヴォレー/フィッシャー・ボディがアッセンブーリー工場としてプラントを買い、乗用車の生産は再開されました。
1918年にGMがシェヴィーを買収してGMの一部門に組み込んだのは、御存知の方も多いでしょう。
1923年には14万4730台製造の年間記録を作ったとの事。

第二次大戦中には他の自動車工場と同じように軍需工場に衣更え。
イースタン・エアクラフトと改名され、1万人もの従業員で軍用機を作っていました。
例の退役小佐の話では海軍のドーントレス艦載爆撃機の生産を下請けしていたとか。 しかし当時の写真に写っているのは輸送機のようです。
生産には相当数の女性が参加していました。 女性の参加といえば、これらの軍用機の完成輸送には、フライイング・ライセンスを持っている女性も多数集めて行っていたとは、さすがアメリカ。
戦争末期には撃墜される恐れが無くなった為、ヨーロッパにも空輸していました。 事故で殉職した女性も少なくはなかったようです。
この頃のアメリカの国内ニュース映画を見ると、軍需工場の中は女性ばかり。 パーツの生産だけではなく、飛行機のアッセンブリーも女性の方が目立ちます。
プレス工、溶接工、バスの運転から、鉄道の運転業務迄女性が入り込んで行き、ソ連も顔負け。 造船所の現場でも雇われていたそうです。
兵器の生産では日本でも女性が多数徴用されていた、という声も出そうですが、違いは、アメリカでは全く本人の自由意志に基づいており、徴用ではなく雇用だったという事です。

閉鎖の理由は、矢張りコスト。GMの工場の中で最もコストがかかると言う事で、何年か前にも閉鎖の話があり、村の固定資産税を半分位迄下げさせたり、州も税金の特別優遇とか、安く電力を供給するとか(ウエスト・チェスターは全米でも電気代が一番高い地域の一つです)、アルバニー(州都)から工場迄、三段式の自動車運搬車が通れるよう、鉄道トンネルや鉄橋の天井を高くする工事費を出す等の条件の下、当分の間、閉鎖はしないという約束を取り付けたばかりでした。

全ての約束を実行させておいてからの閉鎖でしたから、州も郡も村も契約不履行で訴える、と息巻いていましたが、手切れ金と工場の後始末を完全に遂行するという事で結局尻切れトンボ。

勤続年数の長い従業員には他の工場への転勤や早期退職者への優遇を提示しました。 皮肉な事に、雇用期間の長い人には他の工場からの転勤者が多かったようです。
ホワイト・カラーならいざ知らず、ブルー・カラーでは転勤というのはまずありません。
この工場の場合、新しい車種を始めるので熟練工が必要、又、デトロイト近辺の工場の閉鎖や人員整理が続いていたので、特定の職種によっては転勤希望者を募ったのです。
家族を残して出稼ぎの形で出てきた人達は、戻るだけですが、家族全員で引越しをしてきた人達は、又か、と驚き悩んだようです。
勤続年数が 長くなれば、年金が良くなりますし、解雇される時も組合との協定で、熟練度の低い最近採用された人から順番に整理されますから、不景気時でも残れる可能性が高くなります。
会社側にしてみれば、熟練度の大して必要のない職種では、若くて元気な工員の方が人件費が嵩まないのですが、組合が強い所程、年長者が頑張っているようです。
今迄の日本の会社の方針としての終身雇用とは異なり、組合の意志による終身雇用制度のようなものが出来てしまっているのです。
組合が強い職場は給料も良く、辞める人が少なくて空きも中々できず、度重なる賃上げで高給になった従業員が上にずらっと並び、若い人はチラホラという事もあります。

州によってはライト・トゥ・ワーク・ローという法律があり、個人の意志を組合より尊重する、という所もあります。 主に新しく工場を誘致しているような州ですが。
アメリカにある日本の自動車工場も、まだ従業員の平均年齢が若いうちは良いのですが、15年もしたらどのようになるのでしょうか。

私の娘の同級生の親にもGMで働いていた人が二人程いたようです。 一人はもう結構な年で、娘さんも就職していましたので、早期退職して引退生活でもするのかと思っていましたら、家族会議を何回もした結果、テネシー州の工場で働くべく一家全員で引越しして行きました。 娘達は涙のパーティーをしたようです。
近すぎたせいか、工場に一度も見学に行かなかったのは残念です。 もっともあの頃では日本人が何をしに来たのか、と相当嫌がられたと思いますが。

後の土地利用については、まだ決まっていません。 建物自体は郡最大の規模のようですが、コストの高い地に製造会社が移転して来るというのは絶対に考えられず、とは言え大きな入れ物、他にどのような使い道があるのか。 二つの村はスクール税が大幅に減り困惑しています。
最終的には住居と公園、ある程度の店の建設程度に収まりそうです。 河が目の前の一等地、水面下で何やら動いていそうですが。

この項を書き始めて二年以上は経っていると思いますが、先日、1999年4月25日に、工場に出向いてみました。 写真を撮っておきたかった事と、どうなっているのか興味があったからです。
行ってみて驚きました。あの長く大きな工場の鉄骨柱をちょん切って、二棟程以外は横倒し状態になっているのです。 見渡す限り瓦礫の山。あっけに取られてしまいました。
協定ではGMが後始末、特に工業廃棄物の始末について責任を持つ、とあり、全部壊さなくとも使い道があると思ったのですが、待つよりは更地にした方が、という村や郡の考えで突然始まったのだと思います。 去年の夏はまだ健在でしたし、雪の降る冬に取り壊し工事はしませんから、駅に行く途中の坂道から良く見えていました。 
予想外でした。 これで、タレイタウンの有名な一つの顔、そして米国東部海岸の、大きな基幹産業の一工場が跡形もなく消え去る事になりました。 日本もやがてアメリカの後を追うでしょう。
      


  ロックフェラー
もう一つの有名な物、これも殆どのアメリカ人が、最近まで知らなかった事。
それはロックフェラー一族が住んでいる事です。と言うより住んでいたとした方がよいかもしれませんね、現在は三世代目のデーヴィドとローレンスの両兄弟、ネルソンの未亡人が住んでいます(当時)。

敷地が広大な為に、正式には、スリーピー・ホロー、マウント・プリーサント、タレイタウンと三つの村にまたがっており、兄弟の住んでいる当たりは、俗にポカンティコ・ヒルズと言う名前で知られています。

ロックフェラー財閥を一代にして築き上げたジョン・ディ・ロックフェラー・シュニアの兄ウイリアム・ロックフェラーも、隣接地に河岸迄続く広大な土地と邸宅を所有していました。 彼の死後ローレンスが買い上げ、建物は壊されて土台だけ残りました。現在はその一部にIBMの建物が建っています。

現在の話を進める前に、ジョン・ディ・シュニアがどれ程の金持ちだったかの話でも書きましょう。
彼の正式の名はジョン・デヴィッドソン・ロックフェラー・シュニア。 
1839年にニュー・ヨーク州で生まれ、オハイオの高校卒業後、24歳でクリーブランド近郊に最初の製油所を建設しています。

石油の将来性を見込んだ彼は、1870年に兄のウイリアムを含めた投資家と共にスタンダード・オイル・カンパニーを設立。 油田やパイプ・ラインの買い占めを行い、同時に徹底的な値下げで同業者を次々に倒産させ、買収してはマーケット・シェアを広げました。 製油所を持っていても捌け口が無いのではとても競争にはなりません。

1881年迄には殆ど石油市場を独占する迄に至りました。
最盛期には世界でもっとも儲けている会社として知られ、会社資産は当時の金で10億ドルとも言われています。 
この時のシュニアの年収入は 4500万ドルとなっています。 1930年代に現れ出したモテルの宿泊料が 50セントから 2ドルと言いますから、今のレートで 40倍してみると、18億ドルという計算になり、年収という事だけで言えば、マイクロソフト社のビル・ゲイツでもおっつかない。

世論はスタンダード・オイルに非難の矢を浴びせます。 当時の新聞の政治風刺漫画にロックフェラーが度々登場する事になりました。
議会でも問題になり 1890年にはシャーマン・アンタイ・トラスト法、日本でいう独占禁止法が成立。
元々この法律はスタンダード・オイルに対抗する為に作られた法律なのです。
さて、ロックフェラーはトラストの解消を命じられたのですが、分散された組織を今度は持ち株会社でコントロール。
これも 1911年の連邦裁で違法とされ、スタンダード・オイルは、大きく七つの会社に分離されます。

スタンダード・オイル・オブ・ニュー・ジャシー、後にエッソからEXXONに改名され現在に至っています(「シェルーブールの雨傘」のガソリン・スタンドはエッソではなかったでしょうか)。 

そしてソーカル(スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア)ガルフ・オイルと合併し、今のシェブロン

スタンダード・オイル・オブ・インディアナ、現在のアモコ  BPに吸収合併で名前は消滅

ソーヒョー(スタンダード・オイル・オブ・オハイオ)      BPに吸収合併で名前は消滅

スタンダード・オイル・オブ・ニュー・ヨーク、現在のモービル   エクソンと合併でエクソン・モービルに

アトランティック・リファイニング、現在のアトランティック・リッチフィールド   現在はアルコ

アングロ・アメリカン・オイル(アラビア半島の利権を握っていた)です。


今のアメリカのオイル・カンパニーの大元だったのです。今年になってエクソンとモービル、アモコとブリティシュ・ペトロリウムとの合併が決まり、世界的な集約状態になりつつあるようです。

憎まれてはいましたが、見返りも大したもの。 ジョン・ディー・シュニアの1ドル銀貨の話は余りにも有名です。 何処かに行く時には必ず大量の1ドル・コインを用意させ、バラ撒いたのです。 古いニュース・フィルムで見ましたが、大変な人が集まっていました。 もっとも人気取りの為の行為だと非難もかなりあったようです。
1890年には有名なシカゴ大学の創設にかかり、1897年からは本格的に寄付事業に力を入れ始めます。

1901年にはニュー・ヨークにロックフェラー・インスティテュート・オブ・メディスン、後のロックフェラー大学を創立。 1913年にはロックフェラー財団を。

ジョン・ディー・シュニアは 1937年に亡くなっていますが、その二代目の一人息子ジョン・ディー・ジュニアも負けず劣らずとばかりに寄付を行っています。
ロックフェラー・センターの資金は彼から出ていますし、ニュー・ヨークの近代美術館の設立時にも多額の寄付をしています。

観光地で有名なウイリアムスバーグのコロニアル・ウイリアムスバーグも彼の寄付で再現されましたし、アルカディア国立公園の指定に際しても 5000エーカー(20平方Km)の土地を寄付、シェナンドア国立公園指定の際は費用の半額を出しています。

もっとも有名なのは、国連本部建設の際に 850 万ドルの寄付をし、それにより国連のビルがマンハッタンの今の場所に建った事でしょう。
スイスとかの候補もあったのですが、どこに決めるにしても資金難、彼の寄付でニュー・ヨークに決定されたのです。
そう言えば、かの有名なパロマー天文台の 200インチ天文望遠鏡の製作時にも当時の金で 600万ドルの寄付をしています。

ジュニアには五人の息子がいました。上から順にジョン・ディー・サード、ネルソン、ローレンス、ウインスロップ、デーヴィッドです。

デーヴィッドはチェース・マンハッタン銀行の頭取だった事から、日本でも知られていますね。 ハーバード大学の卒業生です。

ウインスロップは 1967年から 1971年までアーカンソー州知事に就任しています。

ローレンスは環境保護者として、団体のディレクターになっり、アメリカ領ヴァージン・アイランズの国立公園指定に際しては 1万 5150エーカー(61平方Km)を寄贈しています。

ジョン・ディー・サードは長男ですが、プリンストン大学卒の静かな学者タイプの人だったようで、大変な日本びいき。 様々な企画に資金を提供し、彼の恩恵をこうむった日本人の数も少なくない筈。

ニュー・ヨーク市にあるアジア・ソサエティーも彼が設立資金を出しています。
こう言う私も遠からず世話になりました。 もう 20年以上前の話ですが、鹿島出版からニュー・ヨークのアート・デコー建築の研究に行く人がいるから、会って彼の希望の写真を撮ってみないか、との話がありました。
会ってみると当時有名な美術評論家。
サードの方からスカラー・シップが出たとの事ですが、滞在費がかさむと言う事で、撮影費は学生アルバイト程度。
しかし期限は半年程もありましたし、被写体の指定以外私の自由と言われ、建築にも興味がありましたのでOKしました。
とはいえビルの内部の撮影には許可が必要。 ロックフェラー・センター等は敷地内に三脚を立てるだけで守衛がすっ飛んで来ます。 サードのオフィスに連絡を入れてあるから尋ねてみてくれとの事。

電話してから数日後に行ってみると、ジョン・ディー・ロクフェッラー・サード・フォウンデーションと印刷が入っている便箋に、私の紹介と撮影の便宜を宜しく云々、とタイプしてあるものを渡してくれました。
何か問題が起きたら、すぐに電話してくれとの事。 これで大威張りで撮影できるというものです。
ロックフェラー・センターの中は、ミュージック・ホール内部も含め撮影し放題。 守衛も最敬礼。
他のビルも、一応前もって電話をかけて貰っては、手紙持参で出かけました。
商業写真でのロケ撮影も以前からしてはいましたが、この電話と手紙の効果は抜群、どこでも一つ返事でした。
扱われ方も丁寧だったような記憶があります。
アート・デコーそのもののようなクライスラー・ビル、内部は勿論ですが、外部の写真も不可欠。 
反対側のビルの屋上からの許可も簡単に取れ、当日は整備員の護衛付き。 普通ですとまず断られるか、法外な使用料を請求されてしまいます。
指定されたビルの撮影が終わった後でも、自分の判断で撮影を続け、この手紙は大変に便利でした。

この話、記事が中々上がらないとの事でポシャッてしまいましたが、ついでだ、とそのまま撮り続け、自分で納得したのは1年半後、ビル100軒位撮ったでしょうか。 一つのプロジェクトとして保存しておきました。 

脱線次いでにもう一つ。時間がかかった理由の一部として天気があります。
殆どのビルの一階は店が入っている為に改装され、アート・デコーの飾りが残っているのはビルの上部だけというのが多いのです。
天気が良けりゃ良いんだろ、と単純に思ったら大間違い。 10 階建てのビルとすると高さは 30m。
真下から見上げても何も判りませんので通りを下がっていくと、他のビルが邪魔になって来るのが 200m位でしょう。 200mmから 300mm位の望遠レンズが必要になってきます。
最初はニコンの製版用 300mmなんぞをはめ込んで使っていましたが、解像力優先のフィルムを使用するには、レンズが暗すぎ、とうとう高性能レンズ欲しさにライカ・フレックス迄買い込んでしまいました。 金にもならんのに。
フィルムとレンズは解決されても不満だらけ、原因は天候なのです。

「絵葉書のような青空」と時々言われるようですが、目で見てイイ天気ダナ、というのでは十分ではありません。
 撮影後のスライドで見てもスカッとしないのです。 
雲一つ無い晴天でも、紫外線とか塵、気流が邪魔し、カメラで覗いても、もう一つ。
強風の日と、嵐が去った後の天気が一番良いという結論になりました。
こうなって来ると東京よりは空気の乾いているニュー・ヨークでも、本当の快晴の日は年に二週間もあったら、になってしまいます。
三脚を担ぎ、散歩がてらと自分に納得させながらの撮影でしたが、結構きついものがありました。

結末としては、この本、3年後程に突然鹿島出版のSD特集号という形で発刊されました。当初の企画とは少々違うようで、ロックフェラー氏には少々申し訳ないという気持ちでした。

私がタレイタウンに引越しをした次の年の1978年に、ジョン・ディー・サード氏は、運転手付きの車でタレイタウンの中を走行中、酔っ払った若い男が運転する車に衝突され、あっけなく亡くなったのです。 普通こんな衝突なら死亡事故にはならないのに、と多くの住民が悔やんでいました。 
そういえば、ここの高校スリーピー・ハイ・スクールの建設時には費用の 1/6 を寄付しています。
日本の文化紹介とか、芸術家を育てるのにもっと長生きして頂きたかった人物です。
息子がニューギニアで人食い人種に殺され、大騒ぎになったのも、サードの事だったと記憶しています。

私とロックフェラーには、もう二つの関わり合いがあります。
二つ目の関わり合いを書く前に、タレイタウンとロックフェラーの関係を述べてみたいと思います。

ジョン・ディー・シュニアがこの地に目を付けたのは 1893年。 2300エーカー( 280万坪、9.3平方km)を買い占めました。
かなり強引に、今は無いイースト・ヴューという地域の全ての家々を買い上げています(人が住まなくなったので名前が消滅、パークウエイ(郊外の乗用車専用道路、高速道路とは違い所々に信号のついた交差点がある)出口のサインに地名が残されています)。

この直ぐ西寄りには 1888年にできた小さな貯水池があり、ニュー・ヨーク市から北へ向かう鉄道線路がヘア・ピン・カーブで急に南に迂回し、池の周りを巡った後、又北に向かって走っていました。
駅もイースト・ヴューの次に二つあったのですが、鉄道が敷地内を通っているのは面白くない、それでは、とイースト・ヴューから北に上る新線を建設し、線路共々三つの駅も廃止させてしまいました。

自分の敷地内に鉄道が通るのを反対して迂回させたというのは判るにしても、買った土地に線路が通っているからと、線路を付け替えさせてしまったのはロックフェラー位のものでしょう。
もっとも引込線は残し、ニュー・ヨークのグランド・セントラル・ターミナルからの特別列車が敷地内迄入り込めるようにし、車の便が良くなる迄は専用列車でも行き来していたというのですから、ここまで来ると唖然です。
この線路の痕跡は今でも築堤と鉄橋に残されており、裏門の所で消えています。
さすがに気が引けたのかどうかは知りませんが、二つある貯水池の内、西側のは村に寄贈しています。

ロックフェラー・ジュニアが邸宅を建設し、その後、1911年から13年の間に改装され、立派なマンションとなりました。
敷地全体はキクイット(Kykuit)と呼ばれており、オランダ語で見晴台という意味だそうです。  キクイット岡は海抜140m程でこの近辺で一番高い丘、ハドソン河が一望に見渡せます。

1963年からは、ニュー・ヨーク知事だったネルソン・ロクフェラー氏がこのマンションに住んでいました。
私が知っている限りでは、ポカンティコを通り抜けて行く道路の右側がローレンスの敷地、左側がネルソンとデーヴィッドだと思いますが、余りにも広すぎてどうなっているのか判りません。

ここで、又、一寸した関わり合いの話に戻ろうと思います。
私達が結婚をして暫くした頃、ヴィザの事を心配した或る人が日本人経営の職業案内所を紹介してくれました。 早速行ってみると、夫婦住み込みで働く事が条件で、ヴィザも取ってくれる所があるから二,三年程働いてみたらとの事。
どんな所ですか、と聞くと、マンハッタンから1時間位の郊外で、門から車で10分もかかる所に玄関がある大富豪、名前は出せないとの事。夫婦で二,三日考えさせてくれ、とその日は帰りました。
ヴィザも取れるし、お金も貯まる、保険もあるし、条件としては最高でしたが、アメリカにハウス・ボーイとメイドさんをしに来た訳ではないし、二,三年という期間は、自分の能力を少しでも早く試したいという年頃の私達には長すぎるという理由で、断ってしまいました。
今から考えれば、あれはロックフェラー一族の誰かの邸宅。私がこう書くのには勿論根拠があります。

タレイタウンに引越しをしてから三,四年経った頃と記憶していますが、私の妻が買い物をしている時に、日本人ですか、と話し掛けてきた年配の日本女性がいました。
サバサバした人で、暫く立ち話をした後、一週間後に家を訪ねて来ました。 この人が T さん。
何回か遊びに来ている内にネルソン氏のメイドをしているという事が判りました。 ロックフェラーで働いている、と言うと変な目で見られるから言いたくないんだ、との事。
タクシーの運転手でもロックフェラー迄、と言うと応対が悪いとの事。 ネルソン氏、この辺出身の女性と再婚をしたのですが、街での奥さんの評判は良くないとの情報もありました。

この頃の私達は、車を持っていなっかったのですが、T さんは週一度の休みにロックフェラー邸から歩いて街に出て来ているとの事。 貯水池の周りを廻り、坂を登り、四十分はかかります。
家に遊びに来る時は、手作りのお惣菜をお土産に、と運んでいましたから荷物も結構あります。 T さんはその頃 40代だったのでしょう。
 話を聞くと、ジョン・ディー・ジュニアの頃からメイドさんは日本人との事。 本当かどうか知りませんが、日本人の作る料理が懐かしくて、兄弟皆日本人のメイドさんを雇っているんだとの話。 日本人は文句も言わず勤勉に働きましたからね。

「ネルソンは日本邸宅に住んでいるのヨ。知っる?」
「本当ですかア? どうせアメリカ人の思っている日本式の家って感じでしょ?」
「それがね、日本から本職の宮大工のような人を雇って、材木も日本から運んだって言うのよ。」
「ヘエ、それは見たいもんだ。だけど大きなマンションがあるんでしょ?」
「そこは閉めてしまって、ずーっとジャパニーズ・ハウスに住んでるの。」


後程、妻が働いていたプレ・キンダーガーテン顧問の児童心理学ドクター(奥さんの方です)の家を訪問する機会がありました。 ここから車で20分程北のクロトンという街です。
そのアメリカ人の老夫婦は日本が好きで、純日本式の住居を日本人の大工さんと作ったと聞いていました。
家の前の敷地には孟宗竹の竹林があり、名札も漢字で書いてあります。
庭には大きな灯篭があり、松が植えてあり、日本の大邸宅の庭を思い浮かばせます。
クロトンで一番高い丘の上から、かなり下迄が持ち物です。
大金持ちという事ではなく、まだ土地が大変に安い頃に買っただけの事とか。

建築は桧を使った日本式ですが、あちらこちらに、アメリカ人の工夫が凝らされており、使い勝手がよいという感じでした。
居間の中に池が作ってあり何匹かの大きな金魚が泳いでいました。 
聞いてみると、建てた人は確かに日本の大工さんで、ロックフェラーの家を建てる為に日本から呼ばれ、完成後もそのままアメリカに住み着いてしまったとの事。
その人と知り合い、友人等と一緒になって建てたようです。世の中狭いものです。

その後、私達も車が手に入り、おばさんを送る事になりました。
私は 35過ぎまで免許を持っていませんでしたから、運転していくのは私の妻。
「凄いのヨ。 守衛の家があって、門から家まで10分もかかるのヨ」
「40マイルで走っている訳じゃないんだろ」
「そりや、ゆっくり走らなければいけないんだけど。途中に見晴台があって景色がいいの」てな感じで月に一度位、送って行ったようです。
その内に私も免許が取れ、送る事になりました。

これから書く事は以前でしたら出来ない事でしたが、今は公園として一部を除き条件付きで公開されていますし、TV でもロックフェラー家の歴史を見せていましたので、ある程度迄は誰にでも判る事。その範囲内で書く事にします。

貯水池の周りの公道を運転して行くと、片側ず〜っと有刺鉄線のフェンスが続きます。
この内側がロックフェラー家の敷地。正門の前は公園のようになっており、クリスマス時にはそこに生えている大きな杉の木をそのまま使って、巨大なツリーの飾り付けができます。
立派なものでしたが段々規模が小さくなり、その木も倒れ、今はどうなっている事か。
正門の柱には大きな鉄柵の扉が付いています。車を停めると、内側の左手にある小屋にいる守衛が、リモコンで扉を開けてくれます。
その向こうに又、閉ざされた鉄柵の扉。小屋の大きな窓ガラスの丁度横で止まらなければならないようになっており、背後で今通過した扉が閉ざされます。
前にも後ろにも行けなくなった状態で、小屋の中の制服を着た守衛に質問を受けます。
夜ですと、最初の門を通り過ぎた瞬間に、サーチ・ライトのように明るいランプが車を照らし出します。 ここは24四時間詰めており、二人の時が多かったと記憶しています。
通信設備も見た感じ整っているようで、日本の交番は顔負けといった所でしょう。
普通は質問攻めにあい、アポイントメントや配達等の確認に手間取るようですが、おばさんが乗っていれば、車内を目認するだけでOK。
もっとも我々夫婦が最初に行った時は、何処から来たの等と聞かれました。
二番目の扉が開き、やっと進む事が出来ますが、制限速度は確か5マイル(8km/時)。

一寸走ると左側に長い建物。 ガラージだそうで、ヘプバーン主演の「麗しのサブリナ」に出て来る車庫の倍はあるでしょうか。
道は右に左にと曲がり坂を登って行きます。 右手の向こうには、ゴルフ・コース。振り返ると母屋と見られる大きな建物。
屋内プール、屋外プール、屋内テニス・コートに屋外テニス・コート、大きなダイニング・ルームやボール・ルームもあるとか。スケールがまるで違います。
兄弟が小さい時にプレイ・ルームで三輪車を乗り回しているシーンをフィルムで見たことがありますが、日本の幼稚園の遊戯室位の大きさでしょう。

道から見える要所要所には近代彫刻がおいてあります。
全ては見れませんが、アレクサンダー・カルダー、ヘンリー・ムーア、ピカソ、イサム・ノグチ等全部で 70点程設置してあるそうで、ネルソン氏のアイデア。 しかし最初は周囲にそぐわない、と他の兄弟に反対されたとか。

上り切った所がイタリア様式の見晴台になっており、大理石(?)の門の下を通り抜けます。 
右側はヨーロッパ・スタイルのマンション。 四階建だったでしょうか。 当時は窓にベニア板が貼ってあり閉鎖されていましたが、現在は修復されミュージアムの形態になっています。
左側は東南部に面し、河はよく見えませんが景色は抜群。 車を停めて石の台に座り、暫く景色を楽しんだものでした。 この先にネルソン氏の邸宅があります。
日本風の塀と門があり、通り抜けると、まあ、これは大きい。田舎の小さな旅館等顔負けの建物。
玄関のたたきも旅館並み。 木も桧で、がっしりと組んであります。 縁先には屋外の温水プールがあり、冬でも泳げるとか。
昭和天皇がご訪問されたのも、この家でした。 外国で個人の家を訪問なさったのは、これが最初で最後の事だそうです。
聞くと風呂は総桧。 掃除が大変とか。 日本の美術品も相当あるそうですが、ネルソン氏がいなくなってからは手入れも行き届いてないようです。
価値が分からない人が所有していても、と思うのは私一人だけではないでしょう。 いずれ、この邸宅も一般公開される日がある事でしょう。

今来た道を戻らず、一周する形で丘を下りていくと、今度はハドソン河が目の前に広がり、もう一箇所のバラ園を背にし(バラ園は数カ所にあります)、ゴルフ場の方から元の道に戻るようになっています。

財産があり過ぎると困るのは遺産相続。 アメリカでは65万ドル以上の遺産自体に課税がなされ、相続人には相続税はかかりません。しかし三代を過ぎるとまず現状維持は無理。
アメリカの大富豪も三代、四代目には、消滅という事になります。
三代目の兄弟達も、このまま残すのは無理と考えての事でしょう、最初は州に土地を公園として寄付すると聞いていましたが、交渉の末、1976年にキクイット全体が国の歴史的建物に指定されました。
兄弟とその家族が生存している間は勿論そのまま生活できる訳ですし、公園として公開されたのは1994年からです。

1979年のネルソン氏の死後、ネルソン氏の区域は国の歴史保存会に寄付され、ヒストリカル・ハドソン・ヴァレーが運営をしています。
もっとも何時行っても見学ができるのではなく、入場者数は制限され、整理券を入手した上で、ガイドと行動を共にしなければなりません。
人気が高く、半年程先の予約でないと手に入らないとか。
もっとも半分以上の整理券は、マンハッタンのボート会社に買い占められているようで、こちらからの方が入手し易いようです。
マンハッタンからの一日旅行で、往復はハドソン河をボート。 再現された昔の地主の邸宅、フィリップスバーグ・マノー入口からバスに乗り、キクイットに行くコースのようです。

ロックフェラーともなると金遣いも大したもんだと思われそうですが、T さん、こんな話もしてくれました。 ある日ネルソン氏が、ほころびた靴下を持って来て、繕ってくれと頼んだそうです。
買えばいいんじゃないですか、と言うと、自分で買いに行くと大袈裟な事になるし、人にやたらと頼める事でもない、この靴下は繕えばまだ履けるのだから、捨てられない、と言われたそうです。 自分自身の事には質素で、この後も T さん何かと繕ってあげたようです。 

ネルソン氏はフォード氏の下で、米国副大統領も勤めました。 私が死んだ後でもクビにしてはいけない、という遺言により、Tさんはネルソン氏の死後も働いていましたが、十年程後で心臓発作を起こし、定年退職という形で引退しました。

最後の関わりは、私が今住んでいる家です。 この家はロクフェラー家のヨットの船長さんだった人が引退後、自分で設計、施工主になって建てた家との事。
ヨットと言ってもセーリング・ボートの事ではありません。 辞書でひくと、セーリング・ボート又はエンジンの付いた船で、優雅な線を持っているもの、とあります。
ニュース・フィルムで見ると、大き目の遊覧船位の規模でした。
ドナルド・トランプ氏が、ある時期に船を買い込み、その大きさと豪華さで話題になりましたが、あれもヨットと呼んでいましたっけ。
イギリスの皇室が主賓を時々招待するのもヨットと呼ばれていますし、ケネディーや、その以前の大統領も ポトマック川にヨットを浮かべて会談をしていました。 これら全てに帆は付いていません。

私の住んでいるいる家は 1950 年代に作られたものですが、要所要所に船長さんだった彼の思いが伺われました。 妻と娘の三人暮らしとの事で家は小さ目。 家の事を聞かれると、私は、このブロックで地所は二番目に大きいけれど、家は一番小さいんだ、と答えています。
マスター・ベッド・ルームも子供の部屋もアメリカとしては小さい代わりに、リヴィング・ルームを大きく取ってあります。船と同じ考え方なんです。
 地下室に行く階段の手摺と段の間には鋭角の三角形を作りながらロープが張ってあり、昔,船の乗降に使っていたタラップを思い出させますし、床のタイルには錨と方位示すデザインをしたものが一枚づつ入っています。
 書斎の照明は操舵輪を模ったものに電球がはめ込まれていました。

ロックフェラーが使用人を大切にしていたのも有名で、敷地の周囲に家を建て、使用人に安く売って住まわせました。  学校も教会も建設しています。
教会はシャガールの手によるステンド・グラスで有名。
人口も増え、現在、従業員として住んでいる人は極一部でしょう。  この地域がポカンティコ・ヒルと呼ばれているのです。


                      
 1986年 隣町ショッピング・センターで、突然空が真っ暗になった。         2006年 ハドソン河岸の夕焼
          

          

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