改装前のグランド・セントラル・ターミナル(G.C.T.) 1974〜1975年

(スペース上、アヴェニューはAve. ストリートはSt.とします。  写真の上をクリックすると拡大写真になります。)

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     @ パークAve. の41St. 側から  A 後は元パンナム・ビル  B 42St. から まだ帽子着用者が多かった。

片側3車線で中央分離帯付のパークAve. は、40St. で両端2車線づつと中央2車線に分離し、両端は42St. に向かって坂を下り、
42St.で行き止まり。 中央2車線は42St. でGCTの2階部高さになり、北行の右側車線は右側から建物に沿ってコの字に走り、
元パンナム・ビルの北で、同じ様に建物の反対側を回る南行車線と合流する。
橋の左、店の上が南行車線の迂回路。 南行は2車線で、建物横に一時駐車が出来るようになっている。
直角に道路が曲がっているので運転し難いし、パンナムの北側はビルの中を下りながら通り抜け地表に出るようになっているので見通しは悪い。
そこから先のパーク・アヴェニューは橋状構造物となっており、大きな車が走ると振動するし、東西の通りとの交差点には継ぎ目があり、
空気抜きの格子から下の列車の動きが判る所もある。

42ストリートの下にはタイムズ・スクエアとのシャトルと、同じくタイムス・スクエアからクイーンズ区に行く地下鉄2線路が走っている。

尚、パーク・Ave. の下にも地下鉄が走っており
@の手前あたりから急にS字型に曲がり、今度はレキシントンAve. の下を走って北に向かう。
A で右の見えるレンガ造りの建物はホテルで、通りからも駅側からもロビーに入れた、というより、元パンナム・ビルやレキシントンAve. の
北隣のグレイバー・ビルと同じくGCTと一体と言えると思う。
B 店の中を通り抜け、駅構内(後は待合室)に出入りできる。

       
 C 42St. とヴァンダービルトAve. の角(西南)  D 出入り口           E

C 右奥の高層建物はクライスラー・ビル  D の左写真はCの下にあたる。 見かけに依らず利用者が多い。
入って直ぐに左に1階と地下に行く傾斜路があり、通勤時には地下ホームがよく使われるし、マディソンAve. から道 一本しか離れていない
という事もある。 正面入り口はパーク・Ave.の下(屋根が要らない)。
D の右写真はレキシントンAve. 側の出入り口。飾りの鼠。
E 1967年に市の歴史的建物に指定された事を記念する銘板。右は夜間閉鎖のサイン。私が最初に行った時はまだは24時間オープンだった。



GCTの解説 (内部の写真は解説の下にあります)

現在の G.C.T.は二代目。
初代のGCTがこの位置に決定された理由は、フォースAve. の42St. 以南にあった駅は、市民の生活環境、安全を図る為に
蒸機の運用を禁ずる、という市条例が1854年に出来た事により、移動を余儀なくさられた為。
パークAve. は未だ無く、42St. の南、マレーヒルでは切り通しにより列車を北に通していた。

初代GCTはコモドール(提督)・ヴァンダービルト氏が組織したニュー・ヨーク・セントラル鉄道により1871年に落成し、フォースAve. は
鉄道線路が取り外された後程にパークAve. に改称された。
尚、パークAve. がマンハッタン北端の川岸迄延長完成されたのは1888年である。

初代駅舎は、欧州大都市終着駅の様に線路上も屋根で覆われた(トレイン・シシェッド)地上駅で、当時もアメリカ屈指の駅であった。
59〜96St. 間は数年をかけて地下化されている。
1898年には増える利用者数に対処する為に大幅な増築がなされた。
しかし、1900年には1日500本以上の列車が発着し、ますます増えるであろう列車本数には十分でない、煤煙の害が酷くなり、
市民からの苦情は勿論、パークAve. トンネル内での信号の目視も難しくなった(実際に何件かの事故が起きており、
1902年には幾つかの信号を見落とした列車が衝突事故を起こし、乗客15名が死亡した。その為、
1903年にはハーレム川の南では蒸気機関車の運行を禁止する市条例ができた)等の理由により、未だ胎動期であった電気運転を採用し、
更に大規模な駅を作る事になった。 1903年から旧駅舎の取り壊しが始まり、1907年には電化が。

二代目GCTは1913年に完成。
総体的な計画はVPで主席技術者のウイリアム・ウイルガス氏による。
中央に東西に長いコンコースを設け、コンコースの北側に長距離用の発着線31本、その下の下階部に通勤用の17本を敷設。
上部の両端線路を半円で結び、後退運転/機関車の付け替えを減らす。
留置線をパークAve. 下に設け、ブロンクスへの回送列車の数を減らす、等であった。
又、ヴァンダービルトAve. 側の地面はレキシントンAve. 側よりもかなり高く、北側も徐々に高くなっていく。  この地形を利用し、
メイン・コンコースの西側は地下、正面でも42St. から緩いスロープでコンコースに降りていく が (実際には、コンコースも殆ど地下/半地下レベル)、
上部線路群の巾は建物の巾の2倍以上あり、この上と、57St. 附近で複々線となる迄の線路上地表部のエアー・ライトを活用し、
商業ビルの建築を促して借地料でも建築費を捻出する事を考慮していた。

1日800本の列車が発着する中で、ヴァンダービルトAve. とレキシントAve. の42〜45St.間、パークAve. の45〜50St. 間を
最大12m掘り下げる事になり、東側から取り壊しを始め、段階的に新発着線が敷設されていった。
仮駅舎の完成後、1910年から旧駅舎の取り壊しと新駅の建築が始まった。
デザイン・コンペが行われ、チャールス・リード/アレン・ステムが選ばれた。
リード氏が提唱したのは、上下2層を緩やかな坂で結ぶ事、パークAve. を地面から上、建物の周囲に巡らすという事だった。
これにより道路の混雑緩和と同時に、建物の内部に道路を通さずに済む事となり、高い天井の巨大な中央コンコースが可能となった。
馬車等を利用する客は(車の現在でもそうだが)、42St. 、レキシントンAve.のみならず、ヴァンダービルトAve. 又、
パークAve. のヴァンダービルト側にも横付けが出来るようになった。
しかし、これには但し書きが付く。リード氏がコンペで選ばれ市への書類審査を準備している中で、コモドー・ヴァンダービルト氏の息子
(当時NYC鉄道の会長)で従兄弟にあたる、友人のウイットニー・ワーレン氏が共同オーナーのウイットニー・アンド・ワーレンとの協力を要請された。
これにより、最初の案は廃案となり、ワーレン氏のデザインが提出されたが、ニュー・ヘィヴン鉄道の反対にあい、最初の案を取り入れ、
より壮大なデザインとなった。
1911年にリード氏が死去し、ワーレン氏の功績とされたが、裁判により多額の和解金がリード/アレン氏側に支払われた。

完成した駅の外側で目立つのは42St. 側の空に突き出ている彫刻だろう。 フランスの彫刻家ジュール・クータンによる鷲を背に立つマーキュリー。
マーキュリーの左下にヘラキュリス、右下にミネルヴァ、足許に直径約 4mの時計が配置され、その後には文明を表現する機械のようなものが
見える。 その像群の下にはグランド・セントラルー・ターミナルの文字が掘り込まれている。 その下、道路上にはヴァンダービルト氏の立像がある。
42St. の正面入り口から入ると待合室、それを抜けると上部コンコース。 正面に左右に続くバルコニーがあり、
左のバルコニーにはヴァンダービルトAve. に通じるドアが、右のバルコニー下にはレキシントンAve. に通じる通路が2本。
左右のヴァルコニー上には天井迄届きそうな巨大な明り取り用の窓が3ヶ所づつ。コンコースの上を見上げると、
天井にはフランスの画家ポール・エリューのデザインによる夜空の天空が描かれており、大きな星には電球が差し込まれていた。
上部コンコースは長さ約90m、巾約36m、天井の一番高いところは床から約38m。 床は大理石で作られている。
下部コンコースはほぼ同じ位置となっているがオイスター・バーや上部からの通路/階段の為に狭い。

構内の説明をすると上階はレキシントン側から1、2番が転回線で半周し、ヴァンダービルト側の38〜42番線とつながっている。
1番線外側の壁は  レキシントンの歩道の内側。 1〜7は掘り下げられているが(その為に上階床面より低くなり、転回線が可能)、
8〜9はホームのある線と同高度で留置線。  10,11はホーム片側に切欠きがあり、これで10、11番。その反対側が12の筈が何故か13。
14と15、16と17、18と19、20と21が島式の両側。 21と23の23側に切欠きがあり、これが23で、島の反対側は24番。
25〜30が又、島式。 30番は両側がホーム。 そのホームの中程迄切欠きがあり、31番。 30番の反対側が32番。
32番の上辺りがヴァンダービルト側のバルコニーの下となる。 直ぐに次のホームがあり(両面乗降可)、手前がやはり32、反対側が33番。
次の2面は島式で34〜37番。 次は壁と柱が並び、低くなった場所に片側ホーム、島式ホーム2本と続き、42番で終わる。
この上の地上部はヴァンダービルトからマディソン・アヴェニューの半分以上迄、食い込んでいる(即ち、この上のビルはエア・ライトで建てられ土地代収入があった。
下階は101番から始まるが、上と同じで11本程の留置線があり、外から2番目が弧を描き2本に分岐してヴァンダービルト側に向かう。
(この辺は私が最初に行った時でも見るのは無理だった。 現在は104か105迄が立ち入りOKと思われる)半分を過ぎて、
101〜103番が弧を描きながら合流し一本となり、内側と2番目の線の内側と再合流する。
その後、2番の二線は分岐を繰り返し115〜125番線となる。101,102と103,104が島。105は両端乗降可、反対側が106番。
島3本で。 107〜111番。 112〜116は両端乗降可。 116と117の島式ホーム。
その外側に2番の転回線から分岐した118〜125番留置/転回線がある。

建物自体は6階建で、鉄道営業以外の業種としては、画廊、ジム、テニス・コート、会議室、着替え室、アート・スタジオ、アパート迄があった。
これらは乗降客の目には触れないように配置がなされていた。
(私も、あの中に商業写真のスタジオがあった、と友人に言われて驚きました)

又、パークAve. 49〜50St. のワルドルフ・アストリア・ホテルの地下には61番線があり、映画俳優等の秘密用 出/到口に使われました。
ロバート・ケネディの遺体が、ここから列車に乗せられ帰宅したのは良く知られています。
(正式には留置線の一本という事で61番という大きな番号が付いているようです)
駅構内には留置線等を含め 50km近いレールが敷設されていたようですが、長距離列車も無い今、簡略化されているようです。
プラットフォームからの出口は南側だけで、朝のラッシュ時にはコンコースに出るのに5分以上かかる事もありましたが、
現在は北側に出る通路もでき、混雑は少々緩和されたようです。

私が最初に訪れた時には、コンコース東側、通路に挟まれて映画館があり、ニュース映画等を見せていました。
レストラン、コーヒー・ショップ、靴屋(靴磨きではありません)、薬局、デリ、ホテル、長距離列車の客が減り、薄汚い雰囲気の漂う場所に
なっていましたが、まさにこの中で生活ができると言えました。
最盛期には550本の列車が発着し、年に6500万人の乗降客があり、ニュー・ヨーク〜シカゴ間の最優等特急「20世紀特急」が
プラットフォームに入る前にロールになった赤い絨毯を発着線のゲート迄延ばしていくのは有名でした(残念ながら見ていません)が、
現在は通勤電車のみとなってしまいました。 この数字にはG.C.T.の地下を通る3本の地下鉄の数字は含まれていません。

地下鉄はヴァダービルト側の傾斜通路を下りていくと、コンコース西のヴァルコニー下からの通路と合流し、42St. 側に歩くと突き当りで、
右に行くとG.C.T〜タイムズ・スクエアを往復するシャトルがあり、プラットフォームはヴァンダービルトを通り越した辺りの階段下にあります。
突き当りを左に歩くと、レキシントン線の出入口、ここの改札口の前階段を上ると42St. の入口内側横に出ます。

他にも出入口は幾つかありますが、利用客はここが一番多いでしょう。<
プラットフォームに下りると、前後が急カーヴした急行と、緩行のホーム2本があり、複々線となってます。

42St. の下にほぼ平行の形に配置されていると思います。<
このホームの階段を又下りた所が、クイーンズに行く地下鉄7番線のプラットフォームとなります(地下鉄7番線はシャトルの下を走っており、

シャトルの改札口内側とレキシントン線の改札口内側は長い通路で結ばれており、2度払いしなくても済みます)。

現在のG.C.T.はレキシントン側にもヴァンダービルト側と同じ様式の階段を作り
(対照的になって良くなったという人も居ますが。 無い物は無かった、と。歴史的建築物ですからねえ)、
ヴァルコニーほぼ全体が軽食用のテーブルと椅子で埋められています。 以前はバルコニーから手摺にもたれかかって下を見ているのも
楽しかったのですが(人の動きが良く見えます。昔はここから待ち人を捜したとか)。
構内は所狭しと見かけが同じ様な店がオープンし、経費を稼ぐ為とはいえ、少々食傷気味です。

       
        F バルコニーから南西角を見る。                G 通勤区間用の出札所                            H コンコース中央。

F 階段を登り外に出ると向こう側はヴァンダービルトAve. 、下に下りると地下プラットフォーム。オイスター・バーもある。
バルコニー上、左の小屋はその時々で使用される宣伝用のブース。 昔は無かった。 窓の下方、暗い部分の上に通路(パークAve. 迂回線の歩道)
があり、時々人が歩いているのを見掛けギョッとする事がある。 左下隅が G になり
G は出札所。 窓口の上はパラパラ式の発着案内掲示板。 アムトラックも出ていた。
大きな時計は無かった(銀行の宣伝)。(これは昼間で、夜ではありません。)
H コンコース中央。北側の旧パンナム・ビルへのエスカレーターを上ると、ビルへの入り口手前にGCTのコンコースを半周するバルコニーがある。
エスカレーター横から見下ろす。 中央が待ち合わせ場所として有名だった時計塔付の案内所。
奥の通路の左右は待合室で、その外側に掃除人付のトイレがあり、使用するにはチップが必要だった。
左側の窓口はこの時点で場外馬券売り場になっていた。

     
I コンコースの天井          J コンコースから F の右下にあたる  K レキシントンAve. 側から           L 同じく
I レキシントンAve. 側から見上げる。星座はかなりくすんでいた。
J F に見える階段の右にあたる。 この通路の右側にプラットフォームへの入り口が幾つかあり、突き当りを右に曲がり、
どんどん歩いて行くとヴァンダービルトAve. 西側のビルの地下になり、2,3軒の地下店を過ぎると45St.への階段がある。
途中には時計の修理屋さんの人一人が歩ける細長い店(ブース?)があり、修理をしていた。
ロッカーの向こうを左に曲がるとDの左写真の通路につながり、それを又左に曲がり、傾斜路を下りて行くと狭い下のコンコースに出る。

K レキシントンAve. 北側出入り口を入り、コンコースの方を見る。 右に見えるのがグレイ・バー・ビルの出入り口。 ヴォーグ等の雑誌を発行する
雑誌社も入っていた。 南側(左側)に、平行してもう一本レキシントンAve. へから出入り口があった。
写真の手前左側には地下鉄レキシントンAve. 線への階段の一つがある。

L Kをもっと進んでコンコースの方を見る。ロッカーは安全確保の為取り外された。右端の縦長のものは、黒布に白く途中の駅名が上から順に書かれたロールを垂らす掲示箱。 上に17番線と書いてある。
その右横がプラットフォームへの入り口。ロッカーの向こう、人が立っている所も同じ。

       
      M                          N                          O

M ターミナル駅独特の頭端式プラットフォーム  空いているのが26番線。 この頃には、プラットフォーム等の照明は蛍光灯になっていたが、
        最初に行った時(1970年)には未だ裸電球だった。
    手前の2編成は、この写真では違いが良く判らないが、手前が交直両用のニュー・ヘィヴン線用 M2型、
        後が直流のハドソン線、ハーレム線用のM3型。
        カラー写真ですと、M2は窓下の塗装がバーミリオンというより朱鷺色。 M3はブルー です。
        最後はニュー・ヘィヴン線用旧NHの4400型電車で両端運転室の1M方式。 次ページにもう少しまともな写真があります。
       このM2は第1陣の受領で未だ車両が足らず、旧式電車も使われていた。M2/M3については地下鉄/通勤電車の項で紹介。

NO 長距離列車(多分シカゴ行)後から2両目の車両。O 普通車です。未だこの頃は新製車両が間に合わず、
          角型で大きく見える1950年代の車両が使われていました。

当時、シリーズとして撮り続けるつもりで始めましたが、確か1970年代の後半に、日本人が写真を撮って出版するという話を何かで見、
自由な時間が余り取れない自分としては、そちらに任せようと、止めてしまいました。
まだ何枚か見つかるとは思いますが、もっと撮っておけば、と思います。
80年代には映画「パリの恋人」ではありませんが、駅とアムトラックを使ってのファッション写真なんてのも考えていました。
無名では雑誌も取り扱ってくれず(案が通れば、有名写真家に仕事が行くのは判っていましたので)頭の中で楽しむだけ。